修道院便り2008年

 

  星に寄せて    エンマヌエル 野口 義高

秋の空高く抜けるように青く澄み渡る日、見上げればぽっかりと浮かぶ雲もその白さがいっそう目に染みる。ゆったりと上下左右、東西南北に自分の姿を自由自在に変えながら雄大に進む白雲からは、冷やっとした青い大気を介して透明な何かが注がれるように伝わってくる。修道院のまわりに広がるコスモス畑をかきわけるように吹く風が、自転車をこいでほてった頬を打っても、九十九里浜のわずかに塩気を含んだ外気に触れていると、身体だけでなく心まで清められる思いがする。

夜明け前、凛として静かに修道院も隣家もまだ寝静まっているなか、冷気につつまれた玄関の庭先から一面漆黒の墨で塗りつぶされたような空を見上げると、頭上から降り注ぐ星の輝きが天上からのものに思えてくる。澄んだ夜空で、月のないときには南の空にはオリオンのくっきり明るい星々が映え、全天一明るいシリウスの強い青白い光や木星の澄んだ輝きも見えてくる。それは人が作り出せる目に見えるどんなものよりも清い世界を映し出しているようだ。星の輝くすがたやそのたたずまいは、最も私たちを神に引き寄せてくれる。

この白子修道院でチャプレンの真似事をし始めて早1年半になろうとしている。身障者の修道志願者をも受け入れるというこの共同体の特殊な霊性にとまどいつつ、またそこから多くのことを日々学ばせていただいている。このことで思い出すのは、ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に刻まれている一つの詩である。

   大事を成そうとして、力を与えて欲しいと、神に求めたのに
   慎み深く、従順であるようにと、弱さを授かった

   より偉大なことができるように、健康を求めたのに
   よりよきことができるようにと、病弱を与えられた

   幸せになろうとして、富を求めたのに
   懸命であるようにと、貧困を授かった

   世の人々の称賛を得ようとして、権力を求めたのに
   神の前に跪くようにと、弱さを授かった

   人生を享楽しようとあらゆることを求めたのに
   あらゆることを喜べるように、生命を授かった

   求めたものは何一つとして与えられなかったが
   願いはすべて聞き届けられた
   神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
   心の中の言い表せない祈りも、すべて適えられた

   私はあらゆる人の中で、最も豊かに祝福されたのだ
   神は、私が必要とすることを一番よく知っておられる
   願わくば、神は賛美され、祝福されますように・・・
 

この詩を初めて読んだ多くの人が感動しているという。人みな弱き者であるがゆえに、逆境においては感謝する心は失われ、祈る心さえうすれてしまう。それは健常者であっても身障者であっても同じであろう。祈ることができないとき、現実を受け入れることができないとき、自然界の美しさ、満天の空はなんと目に染みることだろう。たしかに星の世界は、神が私たち汚れたところにいる人間を、ご自分のところへと呼び戻そうとするために作られたように思われる。夜空の星を見つめていると、誰もが私たちの世界がいかに小さく、人間がいかに空しいことに明け暮れているかを感じるのではないだろうか。

聖書の中にも星に関する記述が多くみられる。創世記第1章の天地創造物語においては創造の4日目に神は太陽と月と星を作られたという記事がある。聖書の中で星はその輝きが象徴するように、祝福された存在を示すことが多い。「日よ、月よ、主を賛美せよ。輝く星よ、主を賛美せよ」(詩篇 148:3)と詩編作者は歌う。ヨブは天地創造の余韻を聞いて「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い神の子らは皆、喜びの声をあげた」(ヨブ38:7)と神の栄光を讃え、また、神はアブラムを祝福された時には「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう」(創世 22:17)と言われた。古代オリエントの人々は天体の存在や運行にひじょうに敏感で、それらは崇拝の対象でもあったようである。エジプトではファラオ(王)は太陽神ラーと同一視されていた。しかし、聖書が語っているのは、唯一なる神が世界のあらゆるものを創造されたのであり、太陽や月・星、森羅万象は神ではく、創造主を啓示するものであるという信仰告白である(知恵13:5)。

新約聖書に目を転ずれば、使徒パウロは天地創造を思い起こしながら、「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります」と、さまざまに光を発する星を仰ぎながら語っており、黙示録では主イエスはご自分を「右の手に七つの星を持つ方」(黙示録 2:1)として、また「ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」(黙示録 22:16)者として紹介しておられる。

忘れてはならないのは、マタイ福音書が伝えるイエスの誕生物語のなかで、星に導かれて東の国からはるばる旅をし、ベツレヘムで生まれたばかりの幼子イエスを拝み、贈り物をささげた三人の占星術の学者たちのことであろう。彼らは、東方でひときわ輝く星の光を見て、救い主がお生まれになることを知り旅に出たのであり、ベツレヘムまで星が東方の博士たちを先導して、幼子のお生まれになった家の上で輝いたのであった。しかし、注目すべきは博士たちの努力や熱心さが救い主を見いだしたのではなく、救い主の誕生とそのしるしが彼らを動かしたことであろう。あと一ヶ月もすれば2008年を終わり2009年を歩み出そうとしている私たちが今、捜し求めているのは、この星なのではないだろうか。

「星を仰ぎ、マリアの名を呼べ(Respice Stellam, Voca Mariam!)」とは、12世紀のフランスのシトー会修道士聖ベルナルドのことばである。もちろん、「星」とは神の御言葉を伝え、人々を真理のイエスへと導く役割を果たしている。主の招きに触れ、神の恵みに動かされた人は、どんなに険しい道であっても、恵みの星が導かないはずはないと信じて前進するのである。晴れわたった夜空に今日も星を仰ぎ見るとき、確かに神がこの無限の宇宙を創造し、支配されていることに思いを新たにし、その大いなる力に頼ろう、その清さによって心を清めて頂こう、招いておられる主のもとに赴こう、という新たな希望が心の内に湧いてくるのである。

 

2008年  修道院便り  目次へ戻る


Copyright (C) 2007. 十字架のイエス・ベネディクト修道会
Congregation des BENEDICTINES de Jesus Crucifie Monastere Regina Pacis. All Rights Reserved.