修道院便り 2008年

 

   貧しき花      Sr 佐久間 光恵

いつしか暑かった夏も遠退き、虫の声が涼しさと安らぎを運んでくる時節になりました。

修室の窓から外を眺めると、猫のひたいほどの畑に、長なす、青じそ、里芋、ゴーヤ、 ウコン等の葉が風に吹かれ、静かに波打っている。わずかな土地であっても、命を生み出し成 長させ、実りをもたらす力を秘めているがゆえに、母なる大地です。

野菜を育てながら、いつも思うことがあります。種を蒔き、芽生えても小さな苗が、元気に全部育つことはありえない。元気な苗を、店から買ってきて植えてみても、同じ土に、同じく手を加えて育てても、弱々しいものが出てくる。その弱いものに虫が群がり、病気に苛まれ、やがて枯れてゆく。無農薬で育てると顕著に表れてきます。この様を見ていると秘められた、謎めいたものを感じます。自分よりも生命力のある他の、同類のものを生かすために、回りの虫や、病気を引き受け、我が身に負って枯れていっているように私には思えるのです。

身内のことで恐縮ですが、これらの弱々しい野菜をみるたびに、春に帰天した姉を、思い出します。長年離れて生活していたので、知らない面が多いのですが、・・・彼女を・・・たとえて・・・貧しい花と呼びたい。小さな花とか、目立たない花はありましょう。・・・が・・・貧しい花は、おそらく無いでしょう。

人間的尺度でみるなら彼女は、貧しさそのものでした。弱い生命力の元に生まれ、若い時から複数の病にみまわれ、人生半ばで難病に冒され、楽しい幸せな人生であった。・・・と・・・言えたでしょうか。

“輝かしい風格も好ましい容姿もない。多くの痛みを負い、病を知っている。”このような不運な人生を彼女は、どのように葛藤し、受け留め、悟っていたのであろうか。個々の宗教とか哲学を持っていたとも思われません。

 昨年、姉を訪ねて施設を訪問した時のこと・・・廊下にクレヨンでかいた姉の絵が数枚展示してあった。その絵の前に立った時 驚き、釘付けになってしまった。こんなにも自然で明るく澄んだ絵、キラキラ輝いている・・・

生きて体験し、悟った魂の表現なのか! 人の心を絞めつけてやまない見すぼらしさを身にまといながら、このような色づかい、心にひびく絵が、内面から出てくるコントラストに私は、頭が下がる思いでした。「この絵は、自分でかいたの? 誰かに手伝ってもらったの?」と聞いてみると、「私がかいたよ!」と返事がかえってきた。

同じ DNA を分けあって生かされてきた兄弟、姉妹・・・私が難病になっても不思議ではなかった。この私を生かすために姉は、それらの病を自分の身に引き受けて行ったように私には思えるのです。

誰を羨むでもなく、誰かを恨むでもなく・・・わからぬままに、そのままを忍び、苦しみ、沈黙の余韻を残して、ひっそりと去って逝った。四人の身内の見守る中、静かに、平安のうちに、美しくも荘厳に魂を神にかえした。 「華やかにではなく、ひっそりとネ」・・・という声が響いてくる。

ありがとう。
        共有した時間、共有した思い出を。
       最後 私が行くまで待っていてくれて
              ありがとう。

二人の約束を守らせてくれて
              ありがとう。

あなたの人生の中で
   最も美しい姿を見せてくれて
                            ありがとう。

 

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