修道院便り2009年

 

   人は何のために生まれ、誰のために生きるのか       Sr  高橋 和子


 私が13歳の春、自分の進む道に大きな夢と希望を抱いて新学期を過ごしていたある日、家が大火災に巻き込まれ、全焼してしまい、そのため、経済的貧しさから進学の道が断たれてしまいました。 それでも健康体であったら働きながら学べる夜間高校に進める道がありましたが、父譲りの先天性の身体的弱さも持っていたために、それも不可能でした。
このとき以来、人間には自分でどうにも出来ない運命と言うものがあることに気が付き、私の心に絶えず次の疑問が浮かんできました。「人は何のために生まれ、誰のために生きるのか。」
 答えを見出せず、暗闇の中を悶々として歩き続けること8年。21歳の春、訪ねた教会のヨセフ神父様(ベトレヘム宣教会)に出会うまで続きました。

 小さなカトリック教会での会話が今でもはっきり思い浮かんできます。
「人は何のために生まれ、誰のために生きるのですか。社会のために役立つ人は別として、体が弱く、学歴もなく、美しさもない私など、どうして生まれてきたのでしょうか。」
神父様はこれに対して、即座にそこに掛けてあったモザイク画の一番小さい灰色の一粒を指して「この小さな一つの部分が落ちてしまったら、このモザイク画は完全なものといえますか」と言われました。「いいえ、欠けたものです」と答える私に「あなたの存在も、このことと同じこと。神様がこの社会にあなたが必要だから、あなたを創られました。ですからあなたはこの社会になくてはならない人なのです!」この神父様のきっぱりとした答えが何の疑いも抵抗もなく腹の底に、“ストン!”と落ちました。

 次に、もう一つ質問しました。「この世の中に苦しみがあるのは何のためですか。」「それは人の役に立つからです。イエスさまもあなたとその他の多くの人を救うために苦しまれたのです。あなたの苦しみも他の人のために役に立つのです。」この答えもまたごく自然に私の心に落ちていきました。多分これは神仏を深く敬う家庭で育ったので、神様の存在は無意識の内に信じていたためでしょう。
 この出会いによって、私を創ってくださった神様と私を救ってくださったイエスさまを深く知りたいと心から願い釜石カトリック教会にせっせと通い、スイスから宣教に来られたヨセフ神父様(主任司祭)とエンデルレ神父様(助任司祭)に導かれ、またこの教会の信徒の皆さんの家庭的な温かい雰囲気に助けられて、信仰の喜び、生きる喜びを見出すことができました。そして、1959年8月15日、洗礼を受け、「私についてきなさい」といわれるイエスさまの弟子としての道の第一歩を踏み出しました。

 この日から今年で50年。また、ここでの修道生活に召されて40年。これまでに、どれほど多くの方々に支えられ、助けられ、祈っていただいたのか計り知れません。
  ありがとう! かみさま。 
  ありがとう! みなさん。

 

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