修道院便り2009年

 

  黙想会    「神はともに 」      吉浦 京子


 真っ直ぐな定規の上を、私は酔ったような足取りで歩いていた。背負ったガラクタの重さと言ったら―――。と、オット〜、オ〜ットット。そして、落っこちた。
――――気がつくと、「あれ〜っ、おかしいな?」「後ろ向き?」。
わたしの人生途上で起こった方向転換である。
 小さい頃、私たちは、いつも聖堂の祭壇近くに座らされた。ある日、ラテン語のミサは解らないし、暑くて....うつら うつらしていると、“ゴツン”後ろから、げんこつが飛んできた。「アイタッ!」泣きべそかいて振り向くと、そこには母の怒った顔があった。もう, 悔しくて ,くやしくて、泣いて―― 寝入ったようだ。目が覚めると、誰もいなくなった薄暗い聖堂の中にひとり取り残されていた。
 夜、「おばばぁ、ここの痒いかぁ...」「ねぇ、また、さっきの話ばして...」蚊帳の中で、私たちは祖母のまわりに寝転がり、うちわで扇いでもらいながら寝入った。
  
「何だ!教会に行かなくったって、みんな幸福そうに生きているじゃないか!!」  親元を離れ、街の教会で受けたカルチャ−ショックとキリスト者の少ない環境での生活の中で...疑い...そして、私は徐じょに楽な方へ流されていった。

 後ろ向きにされた後、私の生き方は大きく変わった。根本的に、それまでとは違った選び取りをし、自ら神を求めるようになった。そして、私は社会の歯車から外れたような自分の歩みを始めた。そのころ、聖書のみことばは、私の内奥まで知り尽くしているかのように心の状態を言い当て、私は渦に巻き込まれるような感覚の中で、神に対して畏れを抱いた。―――神への信頼が増した頃、 私は見知らぬ地で、身も心も極限状態になるまで、他者の必要のために動かされた。そして、来る日も来る日も、祈りはトンネルの中いるかのように私自身の中で空しく響き、私は孤独と自己の無力感に打ちのめされながら...絶望の闇の底で神に向かって叫び続けた。しかし、神は沈黙されたまま、わたしをそこに捨て置かれた。
 時が経ち、私は召命に応えた。ガラス越しに広がる景色に目を遣りながら、無心になっていると...ポコ..ポコ 「あれっ?」..ポコ...キ−ン...「耳鳴りかなぁ?」
――それから、私は注意深く聴くことを教えられ始めた。―――
 今、私はここにいる。すべてが神の恵みのうちにあり、神は、いつも、わたしとともにいて下さることを知っている。
 私達の救い主である神の慈しみと、人間に対する愛が現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新らしく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。(テトス:3.4〜5)
 あぁ、神の富と知恵と知識の何と深いことか。だれが、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(ロマ:11.33,36)


 

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