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 修道院便り2010年


 生きること、死ぬこと    エンマヌエル 野口義高(修道院付き司祭)


 ジリジリと頭の中まで焼けつくような猛暑と、一体いつまでも続くかと思わせた猛暑からやっと抜けかけた9 月末、二人の姉妹が前後して天国に旅立った。一人は長い間、病院と施設での生活を続けてきた姉妹、もう一人はわずか三カ月に満たない入院生活だった。
 二人の姉妹の通夜と葬儀、そして納骨式を終えた今、生きることと死ぬことについて新たに対峙させられている思いがしてならない。もちろん、私たちはカトリックの信仰を持ち、永遠のいのちを信じている。それでもなお、死という人間の力では何人もあらがうことのできない決定的出来事を前にして、生きるとは、そして死ぬとは一体何か、自分の内側からさまざまな思いが沸き起っては消え、答えを求めようとする自分がいる。

 赤ん坊が誕生した時、誰もが喜び祝う。おめでとう、とにこやかに満面の笑みをたたえる。しかし、死に際しては誰も、おめでとう、とは言わないし、にこにこもしない。何が嬉しいのか、と逆にたしなめられることだろう。死とは永遠のいのちへの門出とわかっていても、別れの悲しみはそれまで故人と親しい絆を持っていればいるほど深くせまってくる。

 ヨーロッパの修道院墓地に足を踏み入れると、『メメント・モリ』という標語の刻まれた碑を見ることがある。動詞 memini(メミニー)、「覚えている」という動詞の(未来)命令形が memento で、「覚えていなさい」の意味。 mori は、動詞 morior(死ぬ)という動詞の不定法で、「(自分が)死ぬことを覚えていよ。」という意味になる。十字軍の遠征以降、死と隣り合わせだったヨーロッパ中世末期にさかんに使われたラテン語の宗教用語だ。カタコンベと呼ばれる初代教会時代の信者の地下墓所を訪れると真っ白に乾いた人骨が続く部屋を出た後、この言葉を見ると、明日は我が身だよ、と語りかけているようで身震いさえ覚える。しかし、死は人ごとではない。メメント・モリは、自分にも必ず訪れる肉体の「死」そのものを憶うことと同時に、死を忘れない生き方への警告でもあり、「生きる」ことに対する執着心をいさめているようだ。

 四旬節の初め、灰の水曜日にわたしたちは頭に灰を受けるとき、司祭が「回心して福音を信じなさい」、あるいは「あなたは塵であり塵に返る」と告げることばを聞く。何をするのも自由と時間が与えられているように思っていても、人の地上でのいのちは有限の存在。土は土に、塵は塵に帰る。それがいのちあるものに等しく課せられた定めだ。人はその非情なまでに峻厳な現実を前にして恐怖し、なんとかして逃れられないか、後回しにできないかと切ない願望をもってあらがう。動物の方がよっぽど静かに自らの死を淡々と受け入れているように見える。人はかえって迷い、人生とは何か、幸せとは何か、いのちとは何かと問い続ける。しかし、わたしたちは知っているのだ、人のいのちは本当の救いなしではいかに空しいものであるかを。人の死は単なるすべての終わりではないことを。それを神の子イエスがご自分の死と復活をもって示してくださったことを。

 わたしたちは信じる。イエスの十字架と復活にこそ、人間の根本問題である死の解決を見ることができる、と。神の子イエスは無限の側から私たち有限の側に降って来られた方。その方の光によって、私たちの有限の人生が照らしだされる。キリストは塵から生まれ塵に戻るわたしたちのもとに来られ、復活のいのちによってわたしたちを新たに生かしてくださるのだ。まことのいのち(Vita)は人の生き方(Vita)を照らし出し、そこに新しい活力(Vita)を注ぎ、神との和解によって人のいのち(Vita)を永遠のいのち(Vita)へと結び入れ、その人の人生(Vita)は決定的に変えられる。使徒パウロは高らかに宣言する、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。

   生きる、本当に生きるとはこの永遠のいのちによって生かされることに他ならない。実は、生きるのではなく、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11・25)と言われたキリストのいのちによって生かされているのだ。イエスとの交わりの中に生きている者に、死はどのような力を振ることができようか。

 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ロマ14・8 )。
二人の姉妹の死に様は、その生き様の合わせ鏡となってイエスに生かされた者であったことを私たちに証ししてやまない。


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