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短い祈り

Sr.M.Alberic 樋口碩子

 久々にフランス本部に滞在して、色づき始めたマ
ロニエの木陰を散歩しながら、終生誓願前の一カ月、
ここで毎日黙想したことを思い出した。黄色い落ち
葉を敷きつめた木の根元に、フード付きの大きなマ
ントで身を包んで座り込みヨハネ・カシアヌスが記
した、砂漠の師父たちの“講話”をゆっくりと読む。

 師父イサク(第10講話)の語ることには、特に心
を傾けた。神との深い一致に至るためには、絶えず
神を想うことが大切。
そのための一つの手段として、詩編の一節を謙遜に神の助けを求めながら唱える こと。

 "神よ、速やかにわたしを救い出し、主よ、わたしを助けてください”
(詩編70,2)

 この短い祈りを、苦しい時、誘惑を感じる時はもちろん、助けを求めるために、また心が喜びにあふれている時は、思い上がることのないようにと助けを願う。また、すべての行為において、休む時、夜目覚めた時、起きる時、出かける時、帰った時など、いつでも繰り返す。

 これを続けていると、他の詩編も深く味わえるようになるばかりか、すべての詩編が自分自身のもの、自分が作ったように感じられる程になり、心から唱えることができる。
 そこで私も、さほど頻繁にではないが繰り返してみた。もちろん“教会の祈り”は、1日の最初のもの以外、すべての時課はこの祈りで始められる。
 夜休む時は落ち着いてくり返すことができ、心は安らかになった。詩編を深く味わう喜びに浸されたこともある。

 1973年、はじめて帰国した時、A・ローテル師から頂いた“無吊の順礼者”の本があったので“修徳の実践”仏語版“プチト・フィロカリ”と合わせ読んで実行してみた。多くの形容詞をつけて長くしたものよりも、単純な形式の方が唱えやすいので、フランス語の2人称単数形で、親しみを込めると同時に、リズム感のあるものにしてみた。


 ちょうど4拍を2回で終える。呼吸1回に脈4回のリズムで続けられ調子が良かった。しかし、暑い夏となり、午後など聖堂で祈っていると、心も体も静まるのはよいけれども眠気をもよおし、体のリズムに合わせて、いつの間にかコックリ・コックリ・・・これはいけない。こんな単調な祈りは止めようと、匙を投げてしまった。

 数ヵ月後、日常を離れて2日間の黙想会に参加した。夜のしじま、深い想いに沈んでいる時、ふと気づくと胸の鼓動が、あの4拍子の祈りを続けているではないか。全く驚いてしまった。
体のほうはちゃんと覚えていたのである。その後は、やろう止めようなどと思わずまかせておいた。
数年後アメリカの修道院へ移ることになり、本としては聖書と“無吊の順礼者”だけを荷物に入れた。この祈りを学ぶ機会は訪れなかったが、アイルランド人ベネディクト会士、ジョン・メイン師が帰天されて間もなく、雑誌などで彼の手記を読むことがあった。師は、入会以前インドの大使館員であられた頃、マントラ(7音節以内の短い祈り。)を習うために、導師の所へ行ったそうであるが、「あなたはクリスチャンだから、自分のマントラを見つけて来なさい。《といわれ、聖書の中から「マラナタ」 (1コリント16・22*主よ、来てくださいーという意味のアラム語)を選ばれた。
 ベネディクト会士となってから、修道院へ祈りを学びに来る人々に教えたとのことであったが、ワシントンの聖アンセルモ大学の学長であった時レクテオ・ディヴィナ(聖書や教父たちの著作の深読)としてヨハネ・カシアヌスのものを読み返し、「ああ、わたしたちには昔(4世紀)から、このマントラがあったのだ」 と気づかれたそうである。

 マントラとしては少々長いけれども、日本語の「教会の祈り《では、「神よ私を力づけ、急いで助けに来てください。」 と4拍子で、リズミカルに唱えることができる。それで、ごく自然にわたしの祈りとなった。
 言語は、生活に即して出てくるもののようで、日本にいてもアメリカの友人のことを考えれば、心は英語で語りかけている。アメリカでの黙想中、聖母マリアに英語で問いかけている自分に気づいて驚いた体験もあるので、心の祈りは体にまかせている。




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