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年 の 黙 想
Sr.金井玉枝


 10月14日から1週間カトリック内観による年の黙想をいただきました。
 修道院では5月から本館南側の敷地に増築工事が始まっており、騒音の響 きと埃の舞う日々が続く中、工事現場から離れた客用宿泊所で泊まり、沈黙 と潜心のうちに祈りを深めてゆくことができました。

 今まで良い内観ができたことが無かったので、一日に7回の面接していた だく計画を立てましたが、初日の面接で、今年の春から自分の生き方が変わ ってきたことを話すと、神父様は「もう内観に入っている《と言われ、日に 4回と決め、一緒に生活しているシスターとの関係を、内観の視点、「して いただいたこと、お返ししたこと、ご迷惑をおかけしたこと《の三点から心 を見てゆきました。

 毎日、祈りの報告と神父様のコメントをICレコーダーに録音して次の祈り に入るまでにそれを聞くうちに私の抱えている問題が少しずつ浮かび上がっ てきました。

 今から15年前、個人黙想で目の見えない上自 由さを受け入れる体験がありましたがそれはほ んのスタート台に立っただけのことで、この戦 いは死ぬときまで続くと言われてきました。
 交流の困難さを感じる人の癖や欠点に振り回 されている自分に先ず気づかされました。その 人の問題は横に置いておき、そのことで振り回されてい る自分の心の反応をイエスの前に持っていき照らしていただくように勧められ ました。
 他者の問題と自分の問題をはっきり区別して処理できるよう精神的な自立を 育ててゆけるように願いました。

 私の問題は、先天盲が持つ、場の空気を読みとる困難があることかと思って いました。しかしそれは人間的レベルのことで、周りの人とうまく行かなくな ったときは、どうしたら良いかという考えに従ってゆくよりも霊的感覚を磨き その判断で行く方が神との関係がしっかりとして安定性は保たれます。

 霊的感覚とは謙遜のことで、これは聖ベネディクトの戒律の代7章に詳しく 書かれている心の姿勢のことです。神の前に自分は無であることをいつの間に か忘れてしまう時、問題が出てくるのです。
 私は人から判断が正しいと言われたり、自分は見えないことから直感力が働 くのでほとんどのことは自分でわかっていると思ってきました。しかし他者が 私のことをわかっていないことに思い至っていませんでした。
他者とコミュニケーションするためには自分のことを伝えなければならないの に面倒臭がって、相手がわかってくれない時は鈊感だと他人のせいにしていた ところが見えてきました。
 自分が受け止めることと他人が受け止めることには差があり、私が口に出し て言わなければ相手は私がわかっていると思い誤解が生じ得るのです。それに 気付かず未処理のままになっていた点が照らされました。

 今回の内観でいただいた照らしは次のようです。
・見えないと言うハンディーではなくて見えないことから生じる心の闇が問題。
・相手の言っていることを確認するプロセスを持ち、一歩一歩確実に理解を
 深めてゆく。
・人とのいざこざの時、相手のことを横に置き、自分はどうであるかと言うこ とをイエスの元に持ってゆき照らしを求める。

 終わりの頃には、イエスの前で具体的に話すようになっていました。 同行してくださった神父様と黙想の間働き、祈ってくださった姉妹たちに感 謝し祝福を祈りました。

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