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        巡 礼 


                                        Sr.関雅枝(在フランス)

 現在日本の教会で聖地巡礼と言えば、長崎の殉教者記念教会に詣でる
にしても、ルルドへの巡礼と言っても、目的地の近くまで飛行機あるい
は汽車を使い、そのあとバスやタクシーで目的地に到達するのが大方で
あろう。たまに隠れキリシタンの地を探索あるいは単に散策する人もい
るようだが、あまり一般的ではなさそうである。もちろん日本語にも行
脚とか遍路と言う語が存在しているのだから、巡礼と言う言葉に歩くと
言う意味が含まれているにはちがいないが、21世紀に生きる私たちは
あまりにも便利なことに慣れてしまったのかもしれない。
 それはともかくとして、キリスト者であれば誰でも生涯一度はキリス
トの生きたエルサレムやキリスト教の総本山であるローマに行ってみた
いと思うだろう。いわゆる聖地巡礼と言うわけである。ここフランスに
は、聖地と言われる場所が多数あるが、それでもヨーロッパのキリスト
者は、上記のエルサレム、ローマに加えて、スペインのコンポステルを
あげ三大聖地としている。しかも目的の聖地まで祈りながら歩いて行く
か、せめて自転車など体を使っての乗り物で行く巡礼者も多い。充分体
力のない人や、勤めがあって長い休暇が取れない人などは、一回で目的
地に貫通できなくとも何年かに分けて今年は三分の一、来年は次の三分
の一と、遊び半分ではなく巡礼の本来の意味を生きている。

 私の住んでいるサンジャームはコンポステルへの巡礼路の一つに位置
しているので、毎年多くの巡礼者に宿を提供する。巡礼路はオランダや
ベルギーから南下してピレネ山に通じるフランス西側のコースで、ドイ
ツやポーランドからの東フランスのコースとともにコンポステル巡礼の
有名な通路である。コンポステルは大聖ヤコブの墓の或るところだが、
ちなみに聖ヤコブはフランス語でサンジャック、本修道院はその名を取
ってサンジャック修道院、英語になるとセントジェームス、町の名はこ
の地方のなまりでサンジャームと言うわけである。聖堂の祭壇の裾には
コンポステル巡礼のマークであるホタテ貝が彫られている。巡礼者は大
体夕方到着し、私たちの夜の祈りに参加して、翌朝早く出発と言う形を
取る。到着時は疲れきっていて足を腫らせている人も、シャワーを浴び
夕食を取リ、ぐっすり眠ると元気を回復するようだ。


 コンポステルだけでなく、ここは有名なモンサンミッシェルのすぐ近
くでもあるので、モンサンミッシェルへの巡礼者も修道院を利用する。
今年の大聖ヤコブの祝日(7月25日)には、アンジェと言う町からこの
サンジャック修道院を目指して、一日40キロメートルずつ歩いてきた
若い司祭が私たちのところで聖ヤコブの祝日ミサをあげ、その説教の中
で「私たちの召命は場所にあるのではなく道です。そして道とは仕える
ことです。たとえ隠世修道生活を営み外に出ない皆さんにとっても同じ
です。」と言ったことが私の心に印象深く残っている。その司祭は彼の
司教から神学生の養成担当の任命を受け、その使命を遂行する為に必要
な恵みを願っての巡礼だと言っていた。

 更に8月も終わり頃のある日、ブルターニュ地方からエルサレムへの
巡礼を志した司祭が立ち寄り、やはり私たちと祈りをともにした。6ヶ
月かけてエルサレムまで歩いて行くのだそうだ。リュックは最高10キ
ロどまりの重さにしてテクテクと...なるほど日本と違い陸続きだから
歩いて行かれるわけだが、それにしても私にとって気の遠くなるような
話だ。彼も自分に用意されている神のみ心を捜しての行脚である。


 二人の司祭の例をあげたが、司祭だけでなく子育ての終わった壮年夫
妻が信仰を深めたいとベルギーからの自転車巡礼、若い青年たちの未来
探求といろいろある。こうして私たちは巡礼者をもてなすことにより巡
礼者からいろいろな恵みを受ける。同時に巡礼者にとっても私たちの存
在はただ宿を貸すと言うだけでなく、何かそれ以上の明かしになってい
ると良く言われる。女性の巡礼者には私たちの食卓を提供してともに夕
食をとるのだが、私たちの食堂での光景は彼女たちに取って驚き以外の
何者でもなく、あとからそんなインパクトを伝えられる。こうして見ず
知らずの兄弟姉妹とのキリスト的出会いを戴いている。

 これらの巡礼者が異口同音に打ち明けられることは、疲れやときには
痛みなどとともに黙々と孤独、潜心の内に歩き続けることによって、不
思議な体験を一杯するそうだ。不思議なと言うのは何も常軌を逸した神
がかりのことではなく、迷っていたことに関する確信を得るとか、祈り
における深まり、神と兄弟に対する愛等々である。もちろん文字通りの
不思議、探し物が見つかったなどと言う話も聞いたが。

 聖ベネディクトの精神に則り、自ら外に出て行かず、客をキリストの
ごとくもてなすよう求められている私たちが、囲いの中で出来る小さな
奉仕の分ち合いまで。

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