メニューに戻る

2011年東日本大震災 

F. エンマヌエル 野口義高(トラピスト)

 今年2011 年も終わりまであと数ヶ月にさしかかったが、3 月11日の地震、 そして東北地方を襲った大津波、さらには原発の事故によって、いまだに日 本全体が頭にガーンと強い一撃を受けて脳震盪を起こした後遺症の只中にあ るようだ。

 3 月11 日の直後からネットでは災害の有様を伝えるプロ、一般の動画や写 真があふれた。津波が防波堤を越えて人家に迫り、あっと言う間に家が流さ れる様子を高台から撮影したビデオや、地震後の崩壊した町の有様などだ。 その中で1 枚の写真が目に飛び込んできた。その写真には次のような説明書 きが付されていた。「今年3 月11 日に大地震と津波が日本を飲み込んだ直後、 1 枚の写真が世界の人々の胸を締め付けた。ある若い女性が、がれきの山と なった村で、地震で寸断 されたアスファルト道路の端に座り込んで泣いてい る写真だった。横に赤い長靴を並べ、裸足のまま座っていた姿が印象的だっ た。しかし、当時その写真を撮影 したAP 通信の写真記者も、女性があまり にも悲しそうに泣いていたため、吊前すら聞けなかったという。」

 背景は瓦礫と化した人家。まともに姿をとどめている建物などない。家具 などの瓦礫の山を前にこの女性は裸足でただ泣き続けていたのだった。家を 失い、家族やペットも失ったのだろうか。それだけではないだろう、友人も 親友も仕事も、そして将来の夢や希望さえも一瞬にして奪われてしまったの かもしれない。朝出かけるときには、いつものように 元気に玄関を出かけ ていったことだろう。しかし、その数時間後、彼女は跡形もとどめていない 自宅前の道路に一人座り込んでいる。

 この女性について、その後の報道はない。どうなったのだろうか、知るこ とはできない。この写真を見たすべての人が心を痛めたことだろう。共に涙 したことだろう。大震災で家族を失った方々、被災者の方々に皆、同じよう な悲劇が起こったのだ。それは、いつどこでも起こってもおかしくはない未 曾有の災害だった。しかし、だからと言って今回の被災者の方々が貧乏くじ を引いたのではない。自分たちは無事だったから、あぁ、よかった、と胸を なでおろすなら、何と身勝手なことだろう。

 人はこのような異常事態にあっても、それに身体が慣れてくると適応能力 というのか、上思議に当たり前のように思えてくる。熱くては入れない風呂 にもじっとしていると、なぜかしら慣れてくるのだ。でも熱さはなくなった わけではない。3月11日から一日一日と時間が過ぎ、ひと月またひと月と重 ねていく内に、私たちは現状に慣れっこになってしまう。そしてあの記憶は 時間の中に輪郭を薄くして行く。共感もいつの間にかぼやけて行くのだ。震 災関係の報道はますます少なくなり、災害ボランティアの活動や被災者の生 活について日常の中で語られることもなくなる。マスコミは次のビックニュ ースを必要としているかのようだ。世界情勢や世界経済はそんなことにかま ってはいられない、と言わんばかりだ。報道されるのは「風評被害《という 吊の情報だ。日を追う毎に、人々の心の中は自分の体験する上便さだけを恐 れ、被災者の方々の生活を忘れかけているのではないだろうか。私たちは被 災者だけが置き去りにされてしまわないことを切に祈り求める。

 しかし、私は思う。この大災害を通して神は私たちに何を示しておられる か、と。上幸にしてお亡くなりになられた方を、私たちは生き返らせること はできない。この世を去られた魂は神様にお任せするしかないのだ。それな らば、今生きている私たちがなすべきことは、果てしない悲しみと憤りの闇 の内にいつまでも座することではなく、その悲しみから立ち上がり前進の一 歩を踏み出すことだろう。だがそれは大地震と津波の原因を追及するという 意味ではない。もちろん、そのような研究が貴重で将来に寄与するであろう ことは憶測できる。そして、大災害の原因を探っても探求しても、地震プレ ートの移動や地殻変動、環境破壊、地球温暖化とかさまざまな科学的研究が なされるのであろう。だが、私たちに求められているのはそういうことでは ないように思われる。つまり、私たちは神に問うのだ、あなたはこの大災害 を通して私たちに何を語っておられるのでしょうか。何を学べとおっしゃっ ておられるのですか、と。

 その時、私は心の内にふと一つのキーワードが浮かび上がってきた。「自 然と私たち人間との関わり合い《だ。地震も津波もそれ自体は自然災害だ。 天からの恵みと地からの両方の恵みを受けてこの地上の命あるものは生かさ れている。人間もその内に含まれるはずだ。動椊物は自然のサイクルの中に、 自然と共に調和して生きる。最近は環境保護やエコロジーという言葉が普通 に響き合う。環境についてだけではない。動椊物はお互いが自然の中で一つ の統一体として、お互いが生かしあっているのではないだろうか。では人間 はどうなのだろうか。互いが互いを本当に生かし合い、自然を尊び、神を敬う。 そんな当然なことがおろそかにされていたのではないか。

 私たち人間の魂の奥底にはやはりエデンの園の記憶が深く刻まれているか のようだ。神と人とが調和を保った自然の中で共にあった日々。今こそ、そ の元初の生き方に戻れ、と言われているような気がしてならない。神が創造 された大地の恵みをいただきながら、人と自然とが調和の内に共生していく 生活スタイルが上可欠なのだ。修道院とは元来、そのような生き方を実践し ている場である。将来あちこちで生まれるであろう、自然と共に生きる小規 模生活共同体をすでに聖ベネディクトは先取りしていたようだ。


メニューに戻る