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6. 永遠の生命へ

Sr.M.Albelic(樋口碩子)


 日本三景の一つの巌島神社、その対岸近くの、じ地ごぜん御前の丘で、3年間の療養生活を終えた私は、祖母と妹の待つ尾道市へ戻った。昭和30年の夏である。

 84歳になる祖母は、痩せて小さくなっていた。一日の大半は横になって過ごし、手元にある本は、何でも読むので、“合併福音書”や、公教要理の本も傍に置いた。「イエスと言う人は、偉かったんだねえ。」と言っていたから、大分読んだようであるが要理問答はしなかった。体が弱ってきたある日のこと、「セッコちゃん一人だけクリスチャンになりなさい。ばあちゃんは、お祖父さんと同じお墓に入れてもらわなければいけないから。」と言うので、「お寺さんが、入れてくださらなければ、おじいちゃんのお骨を分けて、一緒に入れてあげるから、大丈夫よ。」と言っておいた。
 ある日帰宅すると「今日から、おしめをして貰わなければならない。」と言うので、折りたたみのデッキチェアーに寝かせて、世話をしやすくした。

 当時、尾道の主任司祭であった斎藤春夫神父様が、お見舞いに来て下さり、信仰についてどの程度理解しているかと、会話を試みられたが、耳が遠くなっているので、うまく通じない。それで数日後、条件付き洗礼を受けることになった。式の後、耳もとで「おばあちゃん、イエスさまの子供になりましたよ。」と言われると、「ありがとうございました。」と答えた。

 一週間後亡くなったので、教会で葬儀をすませ、お寺へ行ったが、檀家の手前クリスチャンは入れられないとのことで、一先ず引き上げた。 皆で協議の末、当時高校でも教えておられた御住職(27歳で私と同年)と同じ職業の叔父に話し合ってもらうことにし、その夜、私は手紙を書いた。「御住職の立場を考え、又私共の方でも、クリスチャンは私一人だけであることから、仏教の短いセレモニーをしていただければ、皆も満足すること、又、宗教間の話し合いが進んできている今日(1960年)、私たちは、世界の平和のために協力すべきではないでしょうか。」といった内容で、これを叔父に託した。

 そのセレモニーは三日後に行われることとなり、和やかな歩み寄りのうちに終了した。その夜は、皆晴れ晴れとした気分で、久々に集まったいとこ同志ポピュラー合唱曲を高らかに歌った。

 戦後のインフレと食糧難の頃、祖母と私は「人はなぜ生きているのか」と問い、先に逝った人たちを、うらやんだものであったが、二人共永遠の生命をいただく身となったのである。

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