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10. あなたに賭けた希望はとこしえに揺るがない

Sr.Francisca 岡島静代 


 表題の言葉は、私の最も好きなテ・デウムという伝統的な教会の「賛美の賛歌」の最後の部分である。今の私の信仰といえばこの言葉に要約できるかも知れない。

子供の時、「なぜ私は生きるの?生きている目的は何?この世界で一番大切なものは何?」この問いがいつも私の心にあった。そして、遊んでばかりいて、学校の授業では落ちこぼれの私に、もう一つの問いがあった。「人間の価値は成績の良さで決まるの?」

16歳の時に初めて福音書を開いた時に、私は心の中で叫んだ、「この人は(イエス)本当の人間だ!」この人の行なったこと、言ったことはそれまでの私の環境の中の考えとは全く違うものだった。 この人を知りたい、この人の生き方を私も生きたい、この望みは強くなっていった。数か月間、神父様から「愛の教え」を学んだ。それらの一つ一つは乾いた砂に水が染み通るように私の心を満たしていった。その年に私は洗礼を受けた。

それから数十年の歳月、様々な出来事や祈りの中で子供の時の問いに答えは一つ一つ与えられてきた。特に、精神的にも身体的にも弱い自分を受け入れることが出来たとき、自分の内の惨めさや業の深さと直面した時、神の深い憐れみを実感しその赦しを体験しありのままの自分でいいんだよ、と自分に言えた時、私は救いとは何かがわかったような気がした。

もうずっと前のこと。修道生活を歩み始めたころ、その道が閉ざされた。身体的にも杖をつく身になった。私には一生を神様に捧げたいという望みしかなかった。神様から見捨てられたと嘆いて数か月間毎日泣いていたことがあった。これからどうしたらいいの・・どん底の気持ちでいたある日、涙ながらに祈っていた。突然、私は深い深淵の中に真逆さまに落ちていった。暗い底に着いたかどうか・・その瞬間私の体はスーと上に昇ってきた。そして、私の肩は大きな荷物が取り除かれたように軽くなった!それまで、生きる希望を失くしていたのに「私は生きる!生きるぞ!乞食をしてでも生きるんだ!」と心の中で叫んでいた。突然全身で解った、私は自分の望みにしがみついていた、と。私の両手はいつの間にか開いていた。私は握りしめていた。私にとって一番大事なものと思っていた道、それを手放せた! もっともっと大切なことがある。それは神さまご自身。神の御心を行うことだけ。そこにこそ本当の幸せがある。それまでの悲しみの涙は喜びと勇気の涙に変わった。一瞬に。外の状況は何も変わった訳ではない。私の体が癒されたわけでもない。でも私は大きな解放感に満たされていた。それまでの苦しみは消えていた。

 何かを握りしめていたら、自由はなくなる。物、人、地位、お金、志、進路・・ただ、それを手放せたとき新しい道を神ご自身が開いてくださる。ずっと素晴らしい道を。私もあの体験のあと、私の深い心からの望みが別の形で実現した。そして今、私はここにいる。でも、この体験は自分の力でなかった。私はただ、自分の弱さと共に涙のうちにしつっこく神様により頼んでいただけだ。あきらめずに・・

 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」  (ロマ 8:38〜39)

 主よ、私は、使徒パウロのこの信仰を望んでいます!

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