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11.  洗礼・入会

Sr. 大場幸子 


 子どもの頃、母は私と妹を、よく若林の叔母の家へ遊びに連れていってくれた。世田谷通りを三軒茶屋に向かって十分程行くと、環七と交互するのでそこを左に曲がってしばらく行くと叔母の家はあった。いつも歩いて行くので通りにどんな家があったか今でも思い出すことが出来る。

 ある日、西洋館の前を通り過ぎようとした時、その家の表札に目がいった。立ち止まって見ると、「ケベック・カリタス修道会」と書いてあった。私は走って二人に追い付くと、表札に書いてあった通りに言った。名前がわかってもここがどのようなところなのか全然わからなかったが、このちょっとした出来事から私がカトリックの洗礼を受けるようになるとは、夢にも思わなかった。

 中学生の時、友達がこの修道院でピアノを習っていること、他に英語とフランス語も教えていることをきいて、私は友達二人と妹と四人で英会話を習うようになった。何年かたって、私は妹と話し合って公教要理を教えていただきたいと願い出た。
毎週土曜日、学校から帰ると二人で通うようになった。一通り勉強も終わったので、洗礼を受けたいと要理を教えてくださっていたシスタージェンに伝えると、とても喜んでくださった。洗礼後所属することになる三軒茶屋教会の主任司祭ブファリーニ神父様に挨拶に行くと、とても喜んでくださり、私にベルナデッタ、妹に幼いイエスのテレジアを洗礼名に選んでくださった。
洗礼式は信徒達の前でと言われたが、シスターのたっての願いと、私達も願っていたことだったので修道院のクリスマス深夜ミサで受洗した。
 受洗の大きな理由は、父の死があったが、シスター達の奉献生活を通して、キリストの無償の愛に触れたからだった。私もその愛に生きたいとカテキスタの勉強をはじめた。当時多治見にあった本会に友達が連れて行ってくれた。そこで何回か黙想し、白子町に移転してからも訪問していた。スペインにいた時、“IEF ”の集まりがロヨラであったので、ことばも出来ないのに参加した。その集まりが終わると私はフランス、パリ郊外にある本部修道院を訪問するため、ロヨラを後にした。

 母院は昔お城だったそうで広い庭と大木が何本もあった。
日本に帰ってきて白子の修道院に挨拶にうかがい、入会日を決めていただきその日を胸に修道院を出た。庭を右に通りを歩きながら庭を見て、私は一瞬立ち止まってしまった。深い森、広い庭、散策の道は? 無かった。
私は思った。それらがあれば大いに祈りの助けになるだろう。でも生きるのは私だ。導かれてここまできた。ここで生きよう。そう心に思ってバス停に向かった。

 入会の日、妹が言った。「大丈夫なの?」と。妹が一番したかった質問だったにちがいなかった。私が入会して間もなく妹は結婚した。私は妹も別の修道会に入って同じ話題で分かち合いが出来たらどんなに楽しいことだろうと思った。妹も家庭生活のすばらしさ、子どものこと等おしゃべり出来たら、どんなに楽しく力づけられることだろうと思ったにちがいない。けれども神様はそれぞれの道を与えられた。
 文面はじめから“私”“妹”という表現をしてきたが、私達は双子の姉妹として誕生した。今私達は神様のご計画の途上にある。“共同体は自分であることを助けてくれる。共同体の一人一人は神様が、合う助け手として送られた。”(野口神父様の説教に続くお話しより)〔創世記2・15〜20〕 私たち二人は神様からふさわしい場所に置かれている。

 あの日、血を吐く思いで家を出たあの苦しさ、辛さは忘れることが出来なかったが、神様はそれを恵みに変えてくださった。
 本会の精神である“単純、平和、喜び、(多治見、白子、本部修道院で共通に感じたこと。)それに十字架の秘義を輝かせる。”を観想しつつ、世界の平和と人々の幸せ、そして兄弟姉妹の愛が豊かになっていくよう、修道院付司祭の捧げるミサに毎日あずかり、そして日々の聖務を共唱している時、私は最上の喜びを感じるのである。


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