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14. 今年…
Sr.関雅枝(在フランス)
教会は第二ヴァチカン公会議開催を記念して信仰年を生き始めた。
折しも本会では“私にとって会の精神とは”と言う課題を皆で生きている。それにつけ修道院便りは“信仰、あるいは会の精神”をテーマにしたから書いてね、と白子修道院からの誘い。人が信仰を得るのは自由意志による選択ではあっても、それを超えて神からいただく恵み、洗礼によって始まり生涯にわたって続く旅、信仰の精神を生きるのも神のたまものであり、恵みのわざであると『信仰の門』でも言われている。
東大の名誉教授だった岸本英夫氏は宗教学専攻の無神論者であった。
皮膚がんとの戦いを記した本で、末期に至り死に瀕しても尚神を信じないでいられる自分を誇りに思う、と書いてあるのを読んで私はかえって驚いたものである。奥村神父様にそれを話したところ、岸本教授は彼の先生だったそうで、日本のインテリにはそういう人が多いと言っておられた。
フランスの哲学者、リュックフェリもキリスト教思想に深い知識と理解を持っているにもかかわらず信じるには至っていない。
恵みとしての信仰、それを受け取るか、断るかの自由をも与えられた人間、何故ある人は信仰にいたり、他の人は信じられないのか、まさに不思議、不思議である。その信仰を深め証しする信仰年に、会の精神を示すとするなら、大変些細な日常の中でキリストに従う弟子としての道を生きる、あるいは少なくとも生きたいと望むことと思っている。会則その他の会の文書が顕していることばを生活というもので表現出来れば良いのであろう。
わたしはもともと根っからの表現家で、表現しなければ次に進めない人間である。小さい時からのことを考えても、絵画、楽器、作文などで、いつも何かを表現していた。
しかし体の不自由に伴って、一つまた一つとその手段を奪われたので、最近ではわたしから出て行く(表現する)ものはあまりなくなってしまった。ただ生き方でだけ表現するしかない。また、わたしに入ってくるものを、味わい鑑賞し、より深めることが多くなっている。
それで今年、読書と私の生活を繋げてみよう。私の読書は文字通り乱読で、あらゆる分野のもので興味をそそられるものを読むのだが、おかしいことにそれがすべて関連しているので、びっくりする。数年前に本会の在俗献身者、山田真紀子さんが送ってくださった『生かされて』と言う本の表紙裏に“どうしても他を変えられないときは、自分が変わるしかない”(ヴィクトル・フランクル)と言う意味の言葉が書いてあって、ウーン、そうだそうだと共鳴したものだ。白子に引っ越して来た頃、もう三十数年も前になるのだが、廊下においてあった書庫にヴィクトル・フランクルの二冊の本があったのを覚えている。訳文が読み辛かったこともあるが、読まずじまいにしたのは、未だ時が来ていなかったのだろう。
さて(“どうしても他を変えられないときは、自分が変わるしかない”という)この言葉は、どの様な文脈で言われたのだろうかと思い、友人に、彼の本を数冊送ってもらって読んだのが、ヴィクトル・フランクルを良く知るきっかけにもなった。
良くと書いたのは彼については折に触れ聞くことがあったからである。もちろん単にアウシュヴィッツの生き残りの精神科医で「夜と霧」の作者、程度の知識だったが。今回彼の著作を5冊だけ読んだが、未だに発端となった言葉は見つけていない。しかし結果としてか、あるいは見えない糸が引きつけてくれたからか、今年は彼との付き合いの中に、これでもかこれでもかと言う程、いろいろな出会いと生活との連関を見、共時性を生きる年となったように思う。
夏に訪ねてくれた友人が、日本でも東日本大震災以降ヴィクトル・フランクルの著書が静かなブームになっていて、NHK教育テレビでも何度か扱われていると教えてくれた。ロゴテラピーや実存分析として紹介されていて、神を認めての深層心理学と思っている。
白子のホームページの末端に場所を貰ってサンジャームでの生活を少し表現してみようと思い、手を付け始めたページ、「窓」とし副題“ノルマンディの空の下”と題したが、中々思う様に進まず、途中で放ってあるもののひとつに“兄弟マロニエの木”と言うのがある。
“サンジャームに来て今の部屋を与えられ、はじめて窓から外を眺めたとき、石垣の外側に立っているマロニエの木に目が行った。小柄でずんぐり一寸樫の木みたい、おまけに左側から飛び出している大きな枝は勢いもなく葉も他の枝のように茂っていない。でも、何となく気に入って、それから十年以上この木と会話を交わしてきた。”と言う書き出しの文章である。
ところが、12年に渡ってわたしの話し相手だった話の主人公であるそのマロニエがこの4月25日の夕方、死んでしまったのだ。その日は明け方からひどい暴風雨で、彼も一日中勇ましく抵抗し続けたようだが、とうとう力つきて夕方4時頃どっと道路側に倒れたと言う。
何しろ左半身が病気だったのだから無理もないかもしれないが、1999年暮れヨーロッパ北部全体を襲ってありとあらゆるものをなぎ倒して行った嵐の時さえ持ちこたえたのに、ちっぽけな嵐に負けてしまうなんて。道路を塞いでしまったため消防車が来て、幹を幾つにも切り刻んで持っていったそうだ。
…そうだと言う、曖昧な表現をするのは、私たちは丁度夕方で共同室、聖堂につめていたので知らずにいたからだ。翌朝部屋からいつもの通り窓に目をやると、何と彼がいない!景色がすっかり変わってしまい、向こうの牧場やブルターニュ地方に通ずる自動車道路まで丸見えになっている。
その状況をみて、ショックであったのと同時に何かシンボリックなものを感じた。わたし自身に起っているものを見るようだったから。とにかく、マロニエが逝ってしまって、わたしの窓からの景色にポッカリ穴が空いてしまった。でも、しばらくはマロニエの死を悼んでいたものの、その向こうに見える牧場や木々の緑が鮮やかさを増して行くに連れ、そう、主はわたしに残されている生をどのように生きて行くようお望みなのだろうかなと思うようになってきた。
彼を見て、会話して過ごした12年、彼が死んだこと、ここまではわたしの日常のできごとなのだが、それから時を間近にして読んだのがヴィクトル・フランクルの「夜と霧」であった。その本を読み進めて行くうちに、アウシュヴィッツの収容所の中で最期近い女性が苦しみの中で、内面の深まりを体験し精神性に目覚めて行く話に出会った。彼女がマロニエの木と毎日対話していたと言うエピソードを読んだときには本当に驚いた。
死んで行く彼女に、木は何と言っていたかと言うと「わたしはここにいる、在る」と言ったのだそうだ。わたしが兄弟マロニエと生きたことが全く違うコンテキストの中で書かれていた。
また、同じとき『日本語には敬語があって、主語がない』と言う本を読んでいて、その中で言われていることの一つに日本語は“在る”、“なる”、“いる”と言う語が主になり、西欧の言葉はどちらかと言うと“する”と言う語が主軸になると言うようなことが出ていて、言葉から気質が生まれると言う事実から日本人が相手に対して“する”ことより“ある”ことを通して愛を表現するとの姿を云々していた。
「木」はわたしにすることではなくあることを教えてくれたかったのだろうか。マロニエの木は嵐に倒れて死に、切り刻まれて運ばれて行った。他方、わたしの方は“する”ことが出来なくなる病気をもらって、これから益々“ある”ことによって神に栄光を帰する生き方を求められているようだ。兄弟マロニエのホームページのその後の結末である。
人が何も出来なくなった時、ただいること、そしてただ愛することが残されている。
イエスは十字架上でそれを生きられた。栄光の主は苦しむ僕の姿をとって、御父と人類への愛を表現された。それに招かれている弟子の一つの生き方が本会の精神と言えると思っている。
最後に私流の解釈を付け加えるなら、“ただいる”ことはもしかしたら“ただ愛されるままになる”ことかもしれない。
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