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15. 「信仰年」にあたって

エンマヌエル野口義高(トラピスト) 


 教皇ベネディクト16 世の自発教令「ポルタ・フィデイ(信仰の門)」(2011年10 月17 日付け)の中で告示された。信仰を生きる道に関連して、福音書の一つの光景が心に浮かぶ。主イエスの呼びかけに答え、即座にすべてをおいて従った弟子たちの姿だ。イエスと共に道を歩んでいる。イエスの前になり後になってイエスを中心とし、イエスを囲んで一つの道を歩んでいる弟子たちの姿である。
 人生という道も似ている。この先を左に曲がれば何があり、右を行けばどこにぶつかる。そんな時期もあった。しかし、日がかけて夕暮れ時になったとき、足元もはっきり見えなくなったとき、見知らぬ土地の勘がないとき、人生という道の中で同じように大きく深い不安に襲われる。ふと横を見れば、同じ道を歩んでいた友の姿は消えている。いや私の方が右にそれ、左にそれたのかも知れない。
 だが前を見ても後ろを振り返っても、トボトボと歩く自分一人の影しかない。その時に思い返すのだ、主の弟子たちの姿を。主はいつも私たちの真ん中におられるのに、見えていない。使徒たちは聖霊降臨の後に各々がエルサレムから出発して宣教の旅に出た時に、主イエスと共に寝食を共にした道でのできごとを思い起こしたことだろう。
 主はいつも私たちの側におられる。人生のどのような山や谷、暗い道や細い道を歩いていようとも主は私たちと共に同じ道を歩いてくださっている。そのことを使徒たちは確信していたに違いない。


 ここで私は想い起こす。白子に来て以来、出会った茂原教会の信仰の友たちが見せてくれたその臨終の姿を。
「何か守りたいものがありますか」という私の問いかけに
「神父さん、守りたいものはもう何もありません」と最後の力を振り絞って筆談で答えてくれたNさん。
「神父さん、今まで読んだり聞いた話は死を前にしてみんな吹っ飛んでしまいました」と苦しい呼吸の中から喘ぎながら語ってくれたIさん。
誰にも看取られず、独り静かに居間で座ったままの姿で旅立っFさん。
その お一人おひとりの生き様に私の頭はがーんと殴られたようで、生きるとは、信仰とは、信仰を生きるとは何なのかという問いを深く深く突きつけられた思いがした。

 信仰年のポスターの標題に選ばれたのは、「愛の伴わない信仰は実りをもたらすことがありません」という言葉。
 私たちの信仰を生きる場は、今私たちが置かれ生活している所以外にはない。主イエスからの溢れんばかりの愛を注がれた私たちがその愛を生きる場所は、今、ここなのだ。
 来客を迎え、仕事に励み、あるいは流す涙にも、燃やす心の苦悶の中にも主は常に私たちと共におられる。痛みも災いも苦しみも、私たちが主イエスの御心を知り、天の御父に近づく道となる。信仰の道は他にはない。今ここにあるではないか。日々の生活こそわたしたちの信仰そのもの。それに徹したいと熱望してやまない。  

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