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父の御許へ行く  Sr.Marie Alberic 樋口碩子


 石橋を叩いても、なお渡らない、決断できない私は、「自分の欲するところを行え」と神様のことばにどやされて、 「あ、私の望む通りで良かったのだ」と、心も体もすっかり自由になって、フランスの修道会へと旅立ったが、7年たっても終生誓願の願書をしたためよう、という気は起こらない。自分を急き立てることはないと悠長に構えていた。

 その頃、霊的読書としてF.X.デュルウェルの「贖い主キリストのうちに」を読んだ。御父の許から世に来られたイエスには残された使命がある。それは「父のみ御許へ行く」(ヨハネ14・12)ことである。
ラテン語では、Vado ad Patrem。きりりと引き締まって心よく響いた。ヨハネ福音書の「行く」というこの語は死をも意味するそうで、死と復活を通して成し遂げられる贖いの業である。
 「ヴァド・アド・パトレム」、
 「あ、イエス様、私もいっしょに行きます」と心のなかで叫んだ。
又もみことばの一撃である。すぐに願書を書き上げて、休息中の総長さまの部屋へ押しかけ、手渡した。

 「父の御許へ行く」はわたしの標語となり、1972年には、まだフランスの本部に居られたシスター稗田がどこからかしき紙を手に入れて、毛筆で誓願宣立文の裏に書いて下さった。
デォ・グラツィアス。