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Je viens pour faire ta Volonte Sr.関雅枝(フランス在住)
なぜわざわざフランス語なのかと言えば、
「私はまいりました。あなたのみ旨をおこなうために!」(ヘブ10、9)
と日本語にすると、何ともいただけないと感じたからである。
このリズム、この躍動がどうしても日本語では表現されず、ヘブライ語もギリシャ語も知らない私にはせめての主張だったのである。
神のご意思に信頼し従うのは全キリスト者が招かれている生き方だが、本会創立者が3誓願とともに4つ目の約束として定めたみ旨への忠実を私も生きたいと望んだ。託身の秘義と十字架の秘義の接点とも言える主のお告げの祭日のみことばは、私の望む生き方を如実に表現してくれている。
そこでヘブライ書の10章から標語として選んだ。まずこの書簡の著者がイエスご自身の言葉として紹介しているのが気に入った。
主こそ私の全てなのだから。またVenirという動詞は動的で積極性が込められていて、当時、未熟な私には、母マリアの深遠なダイナミズムをフィアットのことばの中に把握することが出来なかったことも手伝って、イエスご自身のことばで、自分の生き方を表したかった。
あれから三十数年、確かにこの標語は順境においても逆境においても私を支え、私の歩みを停めさせずに守ってくれた。
ヘブライ書の著者が引用した詩編40 は訳によって
「我が神、私はみこころをおこなうことを喜びとします。」 (新改訳)
などとなっている。
人生の中でもっとも苦しく、痛い時にも喜び!?----- そうなのだ。内面の深いところに主がおいてくださった喜びを誰も私から奪うことはできなかったし、これからも出来ないだろう。
ヘブライ書は続けて、
『キリストはこの世に来られた時、御父に向かって「あなたは、わたしのために体を備えてくださいました。」』
と言っている。そしてその最期には、みこころに従って、ご自分のからだを、ただ一度だけささげられ、私たちを聖なるものとしてくださり、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった。
主の歩みの跡を辿る私たち、「主よ、主よ」と言うだけでは足りないよと、主ご自身も教えてくださっている。
からだをもって神とひとへの愛を生きる道をこれからも歩んで行きたい。
今年初秋におこなわれた総会でも、からだの大切さが討議の一つのテーマになった。
祈り、克己、修業など、人間だからこそ出来る愛の表現を、 時代が変わり生活様式も変わっている今、どのように表現して行くかということだった。
からだが古びてぼろぼろになり、パーツが駄目になってしまった時でも若かったときと同様に
「私はまいりました。あなたのみ旨をおこなうために!」
と言えるはずである。
でもどのように?!
私は永年、80代後半から90代の姉妹達、またちょっと若くても大きな病気や身体障害をもって主の後に従い、み旨を生きる招きを受けた姉妹達と共に生活してきた。ある姉妹は全身不随の状態で、目だけで喜び、感謝を生き、示し続けたし、また他の姉妹は老いの中で一つ、また一つと奉仕の仕事を手放して行った。
彼女から不平や愚痴を聞くことはなかったが、きっと辛いこころの葛藤があったに違いない。
そのほか、からだの垂れ幕を最終的に通って旅立った姉妹達の姿をみて来た。
あぁ、十字架の秘義を世に輝かせるってこういうことなのだと思ったものである。
隠れた、地味な修道生活の中でのことである。