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『ヨベル(解放)の年』 作野 郁子
私は4年前、原因不明の病気を発症しました。
幸いに、素早い診断を受けて、現在、志願期の生活を許されています。
でも、自分に心からの笑みが戻る日が来るとは今でも信じられない思いです。
最悪なのは、「死にませんから」という慰めでした。あんたの性格が悪いからだと言われる方が、かえって諦めもつくというものではないでしょうか。
3年前に、恩人のシスターが依頼してくださり、こちら(白子)の修道院が私のためにお祈りを始めて下さったのです。でも、礼状を書く気力が出ませんでした。そこには幾度もの霊操にもかかわらず、復活の主を信じ切れていない自分があったのです。
やがて、主の十字架を通して、障害や苦しみが恵みに変えられると聞き、私は連絡を取りました。
訪問すると、シスター方は明るい雰囲気で、聖堂に満ちあふれる聖霊の息吹がありました。なぜ?
当時、私は入会を考えていませんでした。そして今も、一瞬一瞬を主にお捧げしているのみです。
『理解されるよりも理解すること』 を望み、主の平和に魅せられ、私は洗礼を頂きました。そして入会後、「あなたを理解したい」という共同体に支えられ、やっと被害者意識から解放されて、昔からあった家族の愛を認めることができました。ここにきて、ありのままの自分を受け入れられたからです。これは御父の愛です。
ヨベルの年は旧約の解放の年。私には、今年がヨベルの年なのです。
生活体験の時、お告げの祈りで 『お言葉通りになりますように』 と唱えると、自然に頭が下がりました。
頭では心の自由の大切さに気づきつつも、生活を変えるのは不可能だと、常に自力で頑張っていた私がです。
発病後は、「神様、なぜですか?」という思いでいっぱいでした。チャプレンの神父様は、10分間の面接で、「あなたは何故?なぜ?何故?と考えてばかりいますね。『何のために?』とは、祈らないのですか!」
一刀両断に言われたことばは清々しいものでした。壁の十字架から、主が見ておられました。
主は、罪深く弱い私を回心の道へと導かれました。
私にも自分なりに夢や都合もあったけれど、そういった生活は、もう十分だと知りました。
日々の祈りを通し、主が示される愛の他に何が必要でしょう。今を生きることしかありません。
私の心を解放し、笑顔を返して下さった神に感謝。主に栄光!