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混沌から光の中へ    大場 幸子


 終生誓願宣立の前に一ヵ月の黙想がある。
標語はイザヤ書から二つ選んでいたが、まだどちらにするかは決めていなかった。

式は三位一体の祭日の日にと決めて、その日の聖書箇所を深めていた。
第一朗読は箴言8章22〜31節。
一行一行留まりつつ祈っていると、創世記1章の天地創造の場面が閉じた目の前に現れてきた。
混沌をじっと味わっていると、“私”がそこに存在していた。影も形もない“私”が。
そこから私の標語が出来た。“わたしは生み出されていた。”

 私は自分自身の誕生から、私とは、家族一人一人とは、人間とは…と心の中はいろいろな考え、思い、イメージがいつもあった。
神父様の日曜の聖書講座から、私とは何者か、人間の創造の由来について聖書箇所から説明を聞いているうちに、心に深く入ったことばがあった。神のみ業の頂点、“神は御自分にかたどって人を創造された” (創世記1・7) であった。
神様はどのような方なのか、なぜイエス様をこの世にお遣わしになったのかを祈っていくと神様はご自分の心を示してくださった。

 ある年の春の日の明け方、私は不思議な夢を見た。
茫漠としたところに、人が笑顔でこちらを見ていた。その人は言った。「行こう!」私はうなずいた。
それから私は私の左手横のずっと先を見ると、真っ暗闇でそこに真紅で丸に近い炎のようなものがあってその中心はオレンヂ色や黄色を越えた光があった。
私はあまりの色の激しいコントラストに「恐い!」と身を縮ませてその人の方に振り返るとその人は、私が今まで体験したことのない速さで私の前を一瞬のうちに走り去って行った。私は“待って。待って。”と走り出そうとすると、平和記念像のような太い腕が私の胸を押え付けるように、ちょうど遮断機のように私の行く手を阻んだ。「行かせて!」と叫び続ける私の口をもう一方の太い手が塞いだ。

 もごもご叫んでいるところで夢は消えた。これは一体なんなのだろうと思っていた。
ミサが終わり朝食をしていた時、電話が入り、人の帰天を知らされた。

 神様はまだまだ修養の足りない私をこの世で果させ、楽しいことも辛いこともすべて体験し、私が私の命を生きぬいた時、神様は最後の召命に呼んでくださるのだと希望をもって日々励んでいる。
あの光の中、三位一体の光の中に入り込ませて下さると信じて。