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両親の洗礼 Sr.MariaGratia佐々木あとみ
2006年2月15日、臨終洗礼を受けた私の父は、その翌朝旅だって逝った。
洗礼執行者は私、母は息たえようとしている父に付き添いながら水盤にした洗面器を持ち立ち会ってくれた。
父の洗礼名はヨセフ。追悼ミサをしていただいたおりには「聖ヨゼフ」と呼んでいただいた。
あれから7年が過ぎ、83歳になった母は今年5月、緊急入院をした。「お父さんの時と同じように洗礼する?」
意識が朦朧となっている母からは返事とも相槌ともとれる吐息。きちんと意思を聴かなくてはと質問を変えた。
「洗礼名はマリアでいいですか?」
聖霊が働いて下さったのだろう。半ば意識が朦朧としていた母が、この時だけは
「はい!」
とはっきりした声を返してくれた。
涙をポロポロ流しながら私は、「ありがとう、準備するからね。」と席をた退った。
しかし病室には洗面器一つない。見回したあげく、修道院から持参していた水を、小さな湯のみにそそいだ。
小さな小さな湯のみの洗礼。それはまさに、貧しさの中にイエス様が栄光を現して下さった瞬間だった。
父と子と聖霊の御名によって洗礼をさずけ、主の祈りを唱えた。
すると母は小さな声で「ありがとう」と言い、私が首からかけていた十字架をギュッとにぎって放そうとしない。
涙を流しながら、しばらく祈りの時を持った。
母は永遠なる神様から命をいただいたのだろう。この翌日からどんどんと体力を回復し、約半年たった今、ケアーハウスで見守りを受けながら、元気に暮らしている。
母が洗礼を受けたのは5月13日、ファチマの聖母=マリアの記念日にあたる。
こうして両親と私はイエス様のいつくしみの内に神の家族としていただいた。
きっと父も天国で祈ってくれていたのだろう。
両親とも兄弟姉妹として多治見教会に籍をおいていただき、一人では出歩けない母のところへは神父様が御聖体を運んで下さり、祈りと御言葉によって養われている。
神に感謝!
同じく「霊」もまた私達を助けて下さいます。
私達はどう祈るべきかを知りませんが、「霊」自らがことばに表せないうめきをもってとりなして下さるからです。
人の心を見ぬく方は、「霊」の思いが何であるかを知っておられます。
「霊」は神のみ心に従って聖なる者たちのためにとりなして下さるからです。
神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く
ということを私達は知っています。(ローマの信徒への手紙)8章26-28節