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福音を生きる   

エンマヌエル 野口義高(トラピスト)   .

 聖書を読む、熱心に祈る、教導職の指針を読み返し聖人の教えにもう一度耳を傾ける、 などなど福音を生きることをもっと深めたいと努力する。 しかし、ミサ聖祭や祈り、黙想の時間を終え、掃除、洗濯、散歩のまっただ中にあっても、 用事で外出した際に接する人々との関わり合いの中でも、福音はどう自分の魂の中に入って いるのだろう、 どこが信仰を生きていない人と違う生き方なのか、振り返るよう自分を促す内的な声を聞く。  祭壇に立ち、説教壇から講話を語る自分。そういう自分がどれほど信仰を生きているのか、 人のことではない、自分自身に問われる。感動的な話に涙し、聖徳に生き抜いた方々の生き 様に心清められ、主イエスのみことばによって癒される。  だが、そんな自分がちょっとした些細な出来事で心を乱され、一瞬にして憤りや怒りにと らえられ、人を傷つける不用意なことばを口にしてしまう。 感情が乱れ、何が悔しいのか、何を言いたいのかさえ、はっきりしない。 そこに信仰や福音、修道生活はどう私に関わっているのだろうか。そのような時にこそ、 自分自身が信仰や福音、修道生活をどうとらえているのかが暴露され苦しむ自分の姿がつき つけられる。  白子に来院されたある神父様がその説教のなかで、修道院生活は正しい道徳的な生活を 目的にするものではありません、とおっしゃってくださった。 確かに世の中には、良心的に正しく、道徳的に正直に生きている人は信仰者でなくとも、 他宗教の中にも、無宗教の方のなかにもおられる。 では、私達の修道生活とは一体、何なのだろう。自分が今、生きているこの生活とはどこに 向かっているのだろうか。 それこそ、教義や会憲からの引用ではなく、自分のことばで答えを出すよう求められている ように感じてならない。  中学生のころ、同級生に誘われて始めてプロテスタントの教会の門をくぐったとき、子供 たちがクリスマスの讃美歌を歌っていたのを思い出す。 その時以来、聖書や信仰書と言われるものに読みふけり、熱心に教会に通うようになった。 何に興味をそそられ、関心を持ったのか。 それはただ、イエスとの出会いのなかに自分の人生を変えてしまう根源的なものを直感的に 感じ取っていたからではないか。 「神を愛する」という観念的な概念よりも、イエスが好きでたまらなく、イエスにとらえら れてしまった自分が、がむしゃらに辿ってきたに過ぎない。 そして今、自分が生きている修道生活。まさに、主イエスに徹底して生きる生活に他ならない。 悩み、つまづき、横道にそれ、そのたびに涙し、赦しと癒しの内に立ち戻ろうと決心する日々 の積み重ね。 それでも主はあの最初の出会いの時と同じまなざしで、私を見ておられる。 主のいのちに生かされる恵みに、深く深く感謝する日々である。