この夏、合同修練の研修会に修練者と参加しました。その帰りの小田急
線の車内での出来事です。若いお母さんが二人の子供を連れて乗車してき
ました。一人は左手にもう一人はベビーショルダーで胸の前に。その子と
目があったので私がニコッとすると切れ長の細い目が大きくなりました。
それからはじっと私の顔を見ているのです。
白い肌のお母さんと時間を掛けたスキーの雪焼けで黒く勲章をつけてい
るような私の顔とはだいぶちがいます。その乳児はきっとそのちがいに見
入っていたのでしょう。まなざしは澄んでかわいかったです。
ある年の夏の前、花係がヒメヒマワリの苗をくださったので、修室の窓
下の犬走りの先に5 〜 6本植えました。時期になって咲き出した花は全部
修室の方を向いて咲いていたのです。
用事があって修室に入って来たシスターが驚きの声をあげました。
「この花は!シスターさちこの・・・」
ヒマワリはお日様の方を向いて咲くと思っていましたから、私もびっくり。
花のまなざしを感じる思いで楽しい日々を過ごしました。
モンゴルを旅した作家が書いています。日本人は遠くを見なくなったと。
九十九里の海岸に立って遠くを眺めているとこれからのこと、現在社会の
こと、自分自身のことがどうであるか気づかされ希望に満たされます。
遠藤周作著「わたしが・棄てた・女」に出てくる女性は、過去の出来事
を受け入れ、祈る人へとかえられていったそのまなざしは十字架の主イエ
スにむかい、清められていったことでしょう。
年の黙想を終えると内面は神様の愛と恵みに満たされて、目にするすべ
てが生き生きと輝いて見えます。写真にした場合も同様でまなざしの思い
通りに撮れるのです。
十字架を仰ぎ見ながら、念祷していると、まなざしを通して神様の愛と
イエス様のみ心に満たされ、その喜びを生きる日々を過ごしています。
聖書の中でイエス様のまなざしを様々な箇所で感じます。“金持ちの人”
(マルコ10・21)イエスは彼を見つめ慈しんで言われた。(新共同訳)主
は振り向いてペトロを見つめられた。(ルカ22・61)イエス様の慈愛に満
ちたまなざしは心に迫って体を突き抜ける愛に満たされて回心へと導かれ
ます。
かっての出来事はいったい何だったのだろう。まなざしを通して感じた
魂と魂のぶつかりあいは・・・。
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