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「日本の信徒発見の聖母」の祝日に思う   Sr Maria Kolbe 廣松 千鶴子


 今から150 年前の1865 年3 月17 日、長崎の大浦天主堂で歴史に残る感動的な出来事が
起こりました。

 日本に禁教令が出され、厳しい迫害と弾圧のさなか、浦上(うらかみ) の信徒14、5名が 命がけで神父に会いに大浦天主堂へと向かいました。その中の一人の婦人、杉本ゆりが、 フランス人のプティジャン神父に「わたしらの心はあなたと同じです」と信仰告白をしま した。 禁教令が下っていた日本に、信徒は一人もいないだろうと思っていたプティジャン神父は 耳を疑いました。  驚くプティジャン神父にゆりが再び「サンタ・マリアのご像はどこ?」と問いました。 この言葉を耳にしたプティジャン神父は、間違いなくカトリックの信徒であることを悟り、 マリアのご像を指さしました。ご像を目(ま)の当たりにした信徒たちは喜びに震え、共に 祈りました。  プティジャン神父は感動のあまり、早速この出来事を手紙にしたため、長上へ送りこれ がローマに届き、教皇ピオ9世の耳に入り、教皇は喜びの涙を流したと伝えられています。 この出来事は「世界宗教史の奇跡」といわれています。  浦上の信徒たちは表向きは仏教徒を装い、マリアに見立てた「マリア観音」に祈り、 自分達で密かに組織を作ります。帳方(教会の暦を管理する者)、水方(洗礼を授ける者) 聞役(信徒達へ連絡する者)を中心に、一人の司祭もなく、親から子へと信仰を伝え守り それが250年にも及びました。  しかし信徒発見の2年後の1867年、キリシタンへの弾圧や迫害が厳しさを増し「浦上四 番崩れ」が勃発。三千数百人が20数箇所へ配流され、厳しい拷問の中、多くの信徒が殉教、 棄教しました。 1873年に禁教令が解かれ、浦上の信徒達は故郷へ戻りますが、田畑は荒れ果て家は壊され 試練の日々が続きます。 それでも浦上の信徒は挫けることなく強い信仰と信念を貫きました。  この出来事を黙想する時、浦上の信徒達やプティジャン神父の勇気ある行動と強い信仰、 聖母マリアの人類に対する深い愛と慈しみを感謝せずにはおれません。 この信仰が永遠へと続き絶えることがありませんようにと願い、心の底から沸き上がった 詩を聖母マリアとプティジャン神父はじめ信徒発見に関わったすべての人にお捧げします。  《 心は一つ 》  「サンタ・マリアのご像はどこ?」おん子を胸に抱きし その尊きみ姿  喜びに瞳潤ませ共に祈る いと気高く麗しき聖母よ。  「わたしらの心あなたと同じ。」先祖から受け継ぎし この尊き信仰  次の世代へと取り次ぎ給え いと気高く麗しき聖母よ。 (注)「浦上四番崩れ」 (明治初めにあったキリシタン迫害)