内観に入る前、藤原神父様にこの数ヶ月間の歩みを聞いていただきました。 その後、「私は罪人の死を望まない。私に立ち返って生きよ」という主のみことばが 私の内から昇ってきました。主は「今」、私に何をお望みなのかを知らされました。主 のささやきを確かに聞いていましたが、私はその御声を聴こうとしませんでした。 それほど私の心は頑なになっていました。しかし、私がどうであろうとイエスは私と 共にいて私を聴き、私の全てを知っていて下さいました。イエスはひとときも私を忘れ ていませんでした。私がイエスを忘れていても・・・・。 内観の最初の面接で神父様は以下の勧めを下さいました。 「1.霊を清めていただく。2.読書(ロシア正教会のセルギイ殿村健朗訳の「祈りの 美術」から「イイススの祈り」を藤原神父様が内観者の祈りの助けにとカトリック的慣 用表現を用いてプリントして下さったものを使わせていただきました。3.「イエスの 祈り」のうちに内観をさせていただきましょう。」と。主の霊に清めていただかないと 主を知ることはできません。私の内面を見ることもできません。 祈りの日々、私の内に光が当てられ心のひだの暗闇にうずくまっていた罪、過失、 愛に反したことなどが静かに昇って来ました。50年位前の出来事で今まで一度も思 い 出されなかった過失が突如として現れた時は本当に驚きました。 そして、それらを神父様に素直にお話できた事は恵みでした。 この数ヶ月間の苦しみは身体にも現れ辛かったです。 しかし、その苦しみと辛さは 私に必要なものでした。主はその過ぎ越しの道のりを ともに歩いてくださいました。 苦しみは大きな喜びと恵に変えられました。 内観の最後に私は、十字架上で祈られたイエスの祈りを確かにいただきました。 イエスの愛をいただきました。私は泣きました。 「父よ、彼ら(由美)をお赦し下さい。 彼ら(由美)は自分が何をしているのか知らないのです」 復活されて今、私達と共にいて下さる主イエスは、御父にとりなしてくださってい ます。あの時も、今も、これからも・・・・ 同行して下さった藤原神父様本当にありがとうございました。 |