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神様を知る旅

平山 智子


 神様はどのような方なのだろう。6月に入会して以来、この問いは深まるばかり。
 私にとっての神様は「良い羊飼い」であり、何でも話せ、疲れた時はその足元で 休ませてくださる方。旧約のイスラエルの歴史だけではなく、私の人生の中でもいつも守り、導き、荒野に道を敷いてくださった方。やはり力強い救い主なのである。
 ある主日のミサ後、修道院のお庭を散歩しながら周囲を眺めてみる。
 炎暑と言われる中、雨が降らなくても元気な草木の生命力に驚いたり、姉妹たちが心をこめて育てている野菜の美しさに目をみはり、じっと見入る。
 普段野菜をじっくり観察するようなことはあまりないけれど、なんとつやつやした、きれいな色、形なのだろう。司祭室の玄関先では、どこからかやってくる猫たちがのんびりくつろいでいる様子に和む。「空の鳥、野の花を見なさい」との言葉どおり、ちょっとお庭を歩くだけで神様についての黙想の材料には事欠かない。

 そして十字架のイエス様の前にしばらくたたずむと、いつもとは違う印象を受けた。
 何と痛々しい、無力な姿なのだろう。全てを奪われ、十字架から降りることもなく、何の抵抗もなさらない。私たちを救うためにあらゆる苦しみを忍ばれた。なぜあえてこのようななさり方を選ばれたのか、いつも不思議だった。
 この時は、私たちの経験する苦しみをご自分も一緒に経験しようとされているように見えた。そこには力強いだけではない神様の姿が現れている。私たちが逃れることのできない苦しみにある時、十字架を仰ぎ見る、苦しみに留まるという意味がわかったような気がした。

 少しは理解できたと思ったら、また違う面を見せられる。毎日神様のいろいろな 姿を見出し、喜んだり戸惑ったり。
 これからも祈りの中、また出来事の中で神様を 知る旅を続けていきたいと願っている。