新しい「ミサの式次第」実施に当たって
〜想像から創造へ〜


エンマヌエル野口義高(トラピスト)

 日本では、今年2022年の待降節第一日曜日(11月27日)から日本語の新しい 「ミサの式次第と奉献文」が実施開始となった。
 よく私が話の中で引用する「心は形を整える」という言葉がまさにピッタリな 気がしてならない。

 この言葉の意味理解は本来は別なのかも知れないが、私流に解釈すれば こうなる。心は心だけで満足することはできず、自己表現として形をとる。 その出来上がった型、形式を私たちは学ぶ。
 花道、茶道、柔道など「道」という字が用いられている習い事は皆、形から 私たちは教わる。入門の初日から花道の「心」、茶道の「心」などを教える 師範はいないだろう。まず弟子は師の形を見て、真似て、学ぶ。とことん真似る。 形の習得である。形は心を整えるのだ。

 しかしいつまでも形だけを追求していたら、それは「免許状」や「段位」を得る ことで終わってしまう。 形を極限まで追求して、自己のものとして咀嚼し栄養とした時、心は従来の 形や形式を打ち破る、斬新で生命鮮やかな新しい形を、極限まで高められた心は 臨界点に達した時、鮮烈に生み出す。 融通無碍の境地に至った心は、もう形にとらわれることなく、新規なものを想像し、 従来の型を打ち破る新しい形を創造する。

 これまで私たちが用いてきた「典礼式文」は私たちの信仰という受け継いできた形であり、 毎日の信仰を養ってきた。 教会の典礼にあずかるごとに、私たちの信仰という心は深められ、典礼の内に生きてきた。 そうやって培われた心が、今、また新しい形をとる。 それは単に言葉の入れ替えや、テキストの付加ではない。 この歴史的な瞬間が、み言葉の受肉を祝う降誕祭を待つ季節である待降節に実施 され始めるとはなんという摂理だろうか。

 産み出された新しい式文の言葉が、また私たちの心を新たに養い始める。
 私たちも新たに「新たにされた形」を学び始めようではないか。