黙想会 「私が私であるために」 吉浦 京子
皆様のお祈りに助けられ支えられて、 日々、神の恵みの中に生かされております。
今回、感謝と祈りの内に私から初めての便りを送らせていただきます。内容は、ここに来て特に印象に残り、今も私の中で希望の恵みであるここでの黙想会について取りあげてみました。
当修道院での黙想会は、初めて参加した私もスムーズに入れるように準備されたもので、3日間のセッションに続き、8日間の黙想は、「神との出会いの喜び」を体験する目的でした。私の存在理由である、「神の象りに似たもの」として創造された自己発見の旅です。私が、歴史の中に起こった、あの苦しみ、悲しみの時の私に聴くために遡っていくのですが、私にとって憂鬱な、辛い旅でした。心に受けた傷、そして他人に与えた傷の数々・・・。そこには、自分の殻の中で、傷みをかばいながら蹲り、外の気配を窺っている私、素直になれずに人を愛せないばかりか、自分をも正しく愛せない私がいました。哀れで、みじめな人間です。自分の意思で神に向かい続けることもできず、ただ、主に「あわれんでください。」と祈るしかないのです。人類が存在する限り続くだろう罪の連鎖の中で、日々、神の秩序に生きることの困難さを実感している私は、道端の短い生涯を終えた虫の脱殻にさえ目を留めて羨み、野の小さな花の清らかさにさえ憧れてしまうのです。
しかし、流れゆく時の中に、思いをこめて、私をそっと、そこにおかれたのは神であることを私は知っています。黙想のある日、深い静寂の中で、湧き上がってくる内なる声を聴きました。その時わたしは、母の腹にある胎児のように安らぎと静かなよろこびにつつまれていました。
「我われは、時間内における神の現存を我々と共にあるものだと判別して見ないが、後で振り返って過ぎ去り、満了したことを注意して見るなら(認めるのだ)。」 (ニューマン・説教集より)
主が賛美されますように。