会則の最初に書かれている二つのことば。
「御父は、その独り子をお遣わしになったほどに世を愛された。」
「独り子は、死に至るまでしかも十字架の死に至るまで従う者となられた。」
永遠に生き続け、響き合っている御父と主イエスの「はい」
御父のみこころを御自分のこころとして生きられたイエス。御父と私達一人一人への愛
を極みまで生きられたイエス。人間の真の幸せの道をイエスは生きて私達に示して下さっ
た。
イエスに倣って生きたい。ただそれだけ。でも愛の道は平坦な道ではない。苦しみを伴
う道。
イエスを忘れて自分の思いのままに生きている私。自我の塊の私。自分でもゾッとする
くらいの恐ろしさを持っている私・・・
日常生活でその自分と直面する時、私の内からイエスのみ名が昇ってきます。
「我が主イエス・キリスト罪人なる我を哀れみたまえ・・・」
主は私のすべてを知っていて下さる。聴いていて下さる。共にいて下さる。
私は安心です。私は失望しません。私が生きることを望まれる主は、新しい一歩を踏み
出す勇気をくださいます。
御父からいただいている私だけの小道をイエスの歩まれたように歩みたい。私の「はい
!」をお捧げしながら命のある限り。ただそれだけ。
父ちゃん、私をゆるして下さい。
教皇フランシスコの「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」を読んでいた時でし
た。「ゆるすことは、いつくしみの愛をもっとも明白に示すこと。」
その言葉が私の内に落ちるやいなや、私は父に対する私の内観をはじめていました。
父がお酒に酔う時、家族、特に母は苦しみました。
私は28才の時まで「父はいらない。母だけでいい」この心で生きていました。
父に対して私はどれほど冷たい娘だったでしょう。どれほど思いやりの無い娘だったで
しょう。私は父を気遣う優しさを無くしていました。
私がどうであろうと父は何も言いませんでした。でも、淋しかったと思います。
父は最期の、死の数日前に母に言ったそうです。
「由美ちゃんのことは何も心配していない。」
その時父は、幸せな今の私を見ていたのでしょうか?
今、やっと気づかせていただきました。「父ちゃん、私をゆるしてください」
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