まだ人類がコロナウイルスの脅威に曝されていないころから、日本人はよくマスクをかけていた。 当時私は、モンサンミッシェルのすぐ隣の修道院にいて、定期的に本部修道院に 出かけていたので、移動中高速道路のサービスエリアなどで観光バスから行列をな して降りてきた人が、みんなそろって白いマスクをかけていたのを、奇妙な気持で 眺めていたものだ。 日本人がマスクとともに旅行 する姿は何かとても滑稽で、それを見る人たちの顔にある種の嘲笑さえ見えたので、 内心いやだなーと思っていた。流感の季節になるとフランスでも病院の待合室など に、手の消毒と病気に罹ったときにはマスクをするように奨励されたポスターが貼 られていたが、手を洗うことはともかく、実際にマスクをかける人など誰もいなかっ た。 本当にマスクをかけることで病原菌の蔓延を防げるのだろうか…という不信感 の方が大きかったのではないかと思う。 |
毎年流感の季節になると共同体は次々と寝込むか、声を失って聖務で歌えなくな
る姉妹が出るのが常で、2004 年のインフルエンザパンデミックの時には、会で5〜
6人の死者を出したものである。 ところで 2〜3年前の流行時一人の姉妹が外出し た折、インフルエンザを持ち帰った。彼女は共同体の中で諸々の役を引き受けてい てとても寝込める状況になかったので、熱を持ちながら、給仕その他危ない仕事を 続けなればならなかった。そこで彼女が取った処置は、マスクをかけて仕事を続け ることであった。私がマスクの効用を目の当たりにしたのはこの時だった。特に彼 女は毎朝私を起こし洗面、服を着せるなどしてくれていたのに私は罹患を免れたの だ。あぁマスクが流行を抑えるって本当なんだ…という思いであった。 |
世界中が公衆の中でマスク使用義務づけている今回、決定的な治療法もなく多大
な死者を出していて、私のいるパリ全域では流行の盛り返しで再び制限を強化され
た地域が増えている。教会でのミサ参加も座席の間隔 2m のうえマスク使用、人々
は感染を恐れ不安のうちに生きている。これらは日本の教会でも同様であろう。 ブルーの共同体では院内にはいなかったが、入院先の施設で一人の姉妹が罹患し、97 歳と言う歳にもかかわらず立ち直った。また創立者の甥に当たる 95 歳の司祭が感 染したものの、彼もだいぶ弱ってしまったが、抜け出てみんなをホットさせた。 でも多くの隠世修道院で感染者を出し、ある共同体では 3 人もの修道士を失った。ま たある共同体では全員が陽性反応を示して一人だけ陰性だったそうで、その一人は 何と門番の修道士だったと言う笑い話もある。とにかく家族にしても、共同体にし ても共に生きているものは、良きにつけ悪しきにつけひとりだけは許されないとい うことらしい。共修共同体は、自分で選んだのではない人と兄弟姉妹として、とこ しえまで結ばれているわけである。それだからというわけではないが、多くの共同 体で、院内ではマスクなしで生きている。つまり家族並みというところだろう。 |
他方、毎日介護のために来て下る方々、病院で働かれる方々はコロナ事件以降、手
指の消毒とマスクの使用は以前考えられない厳密さで実行されている。現在私は本
部修道院の工事に当たって、2 か月に渡り (10 月〜 11 月 )、パリ西側にある病院に
来ている。それで、修道院にいたときには考えなかったマスクに関する側面を体験
したので、それを分かち合いたい。長々と書いてきたが、これが分かち合いたいこ
との本筋なので、もうしばらく付き合っていただきたい。
顔の半分を隠してしまうと、今まで見過ごしていた半面に出会うことがある。ひ とりのオーモヌリ(患者を訪問するグループ)のメンバーが訪ねてくださったとき、 私は不思議な居心地の悪さを感じた。彼女はマスクの下で満面の笑顔を私に向けて いることは見えなくても確かなのだが、その微笑みが私の内面に届かないのだ。彼 女の目は笑っていない…と私は思った。顔の下半分が隠れてていたので上半分が強 調されてしまったのかもしれない。別に私が嫌いなわけでもあるまいが、何か苦し みを隠しているのかな…と思ったりした。また次の方が訪問してくださったとき、 彼女の嫌みのない親切と善意がひしひしと伝わって、思わずお顔を見せてください ますか?とお願いしたら、むき出しの歯を見せて笑っていた。この方は神の子の喜 びを生きていると感じた。もともとマスク使用が始まってから、私は初対面の方に 会うと必ず、離れたところでもいいから顔を見せてくださいとお願いしている。 |
マスクをかけた方と初対面すると、名前にしても出来事にしても、間違うことおびた
だしいのだ。それに人間同士の伝達はただ言葉だけでないと思っているからでもあ
る。その中でも顔の表情の語ることは大きい。その半分を隠されてしまうと、名前
を覚えるという単純なことも、サッといかないのは私だけであろうか?
ある日の朝、一人の介護者が朝食を食べさせてくださった。彼女はマスクの上の 目を細めて、「おいしいですか?」「昨夜は十分眠れましたか?」等と話しかけて くる。私はその眼差しの奥に悲しみを見た。そして、二言 ( こと ) 三言 ( こと ) 他愛のない会話の後、彼女は「私は神を信じません。」と切り出した。「どうして ですか?」と聞き返すと「実は難しい息子を抱えているのです。」…そうこうする うちに食事がすみ彼女は私のそばを離れていった。ところがそれから、彼女の目 が優しさをましたのである。私は何もしなかった。あるいは神を信じている私に「信 じないよー」とぶつけてさっぱりしたのだろうか。マスクの下の顔はそれ以上何 も語ってくれない。 不思議なマスク、不思議な人間のお話し。 |
|