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 令和2年1月16日に日本で最初に新型コロナ感染患者が報告されて以来、新型コロ ナウイルスによる肺炎患者が中国武漢市に爆発的に発生したというニュースを対岸 の火事のように聞いていた私たちは、瞬く間に拡大して行く感染の予防と対策に振 り回れてしまった感じがする。

 空気感染はしない、対人感染はしない、納豆が予防に有効などと根拠が曖昧で あってもどこかで安堵していた時に入ってきた有名人の訃報は、強烈な恐怖感と言 いしれぬ不安感をかき立てた。「喉元過ぎれば熱さ忘るる」がモットーのような日 本人をして心底から震え上がらせて余りあり、マスクやソーシャル・ディスタンス、 三密を避けましょう、などと自衛団的な姿勢は未だに健在だ。そのような社会の動 きと連動して、教会活動もまた制約を否応なしに受け、日本でも各司教区は政府や 地方自治体の方針に沿った種々の指針を迅速に発表し、小教区における予防策の周 知の徹底をはかってきた。
 白子修道院が所在する東京大司教区もいくつもの指針を発表し、私たちは茂原教 会でのコロナ予防対策の実施方法は手本としてさせていただいたし、主任司祭であ るルイス真境名神父様の白子修道院訪問の折の具体的な指示は大変心強いものであ った。そのご指示に沿って白子修道院の毎日の聖体祭儀は外部信徒の皆さんには残 念ながら非公開のままに続いている。非公開とは言え、姉妹たちの座席は隣とは空 席を挟み、十分なスペースを聖堂では取っている。それでも信徒方の参加しない非 公開の毎日のミサの中ではいつも通りに姉妹たちは高らかに聖歌を歌い、コロナ以 前とそれほど変化は見られない。
 自分たちがほとんど変わっていない生活を続けていると、修道院の外部もそんな に変わっていないのではないかと錯覚してしまう。私の習慣である早朝の散歩時に は、マスクをしている人とすれ違うことは滅多にない。ところが、昼間になると様

たりすると、消毒とマスクと、発熱しているかどうかに、とても敏感にチェックが 入る。医院では受付前に手洗いと手指の消毒、体温測定器を身体に当てられた後 この数週間、自身か家族に発熱がなかったか、県外からの訪問者がなかったか等




のかなり詳細にわたるアンケートが毎回実施されるほどの入念さだ。自転車に乗って 外出して、途中でマスクをしていない、ザックの中に入れてもいないことに気づい て慌てて家に取りに戻ったことが数度ある。
 毎日、ミサ聖祭や典礼はいつもの通りで、生活上の制約や変化のほとんどない修 道院内での生活とは別に、小教区に属する信徒方の信仰生活は大きく変わざるを得 なかったことは想像に難しくない。東京教区では9月16日までは75歳以上の信徒の 方は小教区の教会でのミサにあずかることも遠慮していただいたし、年齢制限が廃 止された今もなお小教区のミサへの参加には人数制限や、信徒席での歌唱なしなど の制約が付随している。
 茂原教会では苗字が「あ」から「そ」のグループと「た」 から「わ」のグループの二つに分かれて日曜日午前中に別個のミサにあずかるのだ と伺った。主日に数度ミサ聖祭を司式される主任神父様のご苦労にも頭が下がるが、 奉仕される当番や教会役員の方々のきめ細かい配慮にはどのようなねぎらいの言葉 をかければ良いのであろうか。感謝の言葉が出るだけである。

   社会では毎日会社に通勤する代わりに、一部では自宅での作業や、会社内の会議 もインターネットを用いたWebテレビ会議などを導入している所もあると聞く。茂 原教会でも主日のミサ聖祭に参与できない方々のために、Youtubeという動画サイ トを介したミサの録画中継を行うという独自の活動を行なっていた。全国でも司教 区レベルではあるのだろうが、単一小教区として主日のミサ聖祭をアップしていた のはそう多くないのではないか。視聴者数もかなり伸びていたと聞いている。
 バーチャルな次元でのミサ聖祭参加の増加とは逆に、これまでの小教区の活動、 種々の勉強会や集会は軒並み中止や縮小せざるを得なかったのではないだろうか。 飲食を伴う集まりを催すことは特に避けられたであろう。教会で食事を共にする、 ということは単なる飲食行為ではなく、共に一つのキリストの体に養われた者が今 度は身体を養う物を分かち合い、奉仕し合う大切な場なのだと思う。教会はミサ聖 祭に参加して、はいさようなら、と別れてしまう集会ではない。


 神と人との交わり、人と人との交わり、その十字路のような教会。ミサ聖祭参与 もグループに別れることによって、教会で会える人と会えない人たちが生じる。仲 の良い信徒同士なら教会外でプライベートに会うこともあるかも知れないが、共に 一つの食卓を囲む友がいないミサはなんと味気ないことだろう。逆に、極論をお許 しいただければ、日頃敬遠している信徒に囲まれて捧げるミサはどんなに居心地が 悪いことだろう。会いたい人とは一緒にあずかることのできないミサや、あるいは 不仲な友と会わなくても良くなったミサに安堵してしまう。教会活動の奉仕のため に費やしていた時間から解放され、責任を担うこともなくストレスから解放されて 自由な時間が増えたと思うに至るならば非常に残念なことだ。
 人生に意味のないことはない、とよく言われる。個人的レベルでそうなら、今年 起きた様々の地球的出来事にも意味のないことはないはずだ。コロナ禍で小教区の 信徒の方々は自分の信仰のあり方、日常の実践について振り返る大きな機会を得た のではないだろうか。いくつもの制限付きの不自由な教会活動は、人と人との交わ りに多大な影響を与え、信徒の交わりを疎遠にしてしまった。それを居心地悪いと 感じるか、あるいは、かえって、一人でパソコンを開いて好きな時間にネットでミ サに参加し、祈り、聖書を読み、教会に行かなくても信仰は守れるとお手軽な信仰 生活に慣れてしまうのであろうか。
   そのどちらをも見据えながら、いつかまた私たちがコロナ発生以前の状況に戻れ る日がいつ来るのか分からないが、果たしてコロナ以前の小教区活動に戻れるのか、 あるいは、戻るとしても、この時期に私たち一人一人が、それぞれの場で経験して きた信仰のあり方についての考察をどう活かしていけるのかが問われるのではない かと思う。それを小教区に属している信徒の方々への問いとしてだけではなく、修 道院生活を営む私たちにとっても次の時代へ進むためのチャレンジとして捉え直し たいと思う。