毎日午前の終りに朗読の聖務があります。第1朗読は聖書朗読、第2朗読は霊的著作を読みます。復活節第7月曜日に「毎日の読書」(カトリック中央協議会発行)よりエルサレムの聖チリロ司教の教話を聴きました。「わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠のいのちにいたる生きた水がわき出る。」(ヨハネ4,1)聖チリロはこう言っています。“主はなぜ聖霊の恵みを、「水」と呼ばれたのでしょうか。それは、水が万物の根底であるからです。”と。この朗読から、私は日ごろ心にあったことを連想し、関連づけてみました。
毎週土曜の午後、土曜学校があります。近くに住む2人の
きょうも遠くから子ども達が自転車に乗ってやってきます。東隣りの家の庭は自転車置き場になります。この生徒達と接していて、1つの感覚を持ちます。 白子の子ども達はみんな人なつっこく、小学校のクラスが同じなので生徒同志互いに知りあっている気安さがあって、自由な雰囲気のうちに勉強します。私も点数評価をしませんから、生徒たちも警戒しないのでしょう。イエスさまとマリアさまのみ守りのうちに過ごすこの一時間、私は子ども達の体から“ピタッ”とするものを感じるのです。“あっ、これは?!”
食事をいただいている時にも感じる、ある1つの食感があります。塩ゆで大豆に栗、マンゴーと桃等々他に“あっ、これは?!”と思うことがあります。これらのことを思う時、一人ひとり、食物一つひとつに神の命、恵み、愛が息づいているのを感じます。
日々感謝と喜びのうちに神への賛美の祈りを捧げています。皆さまと共に。皆さまに代わって。