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司祭室の窓から

野口義高(トラピスト)


 十字架のイエス・ベネディクト修道会来日五十周年記念、おめでとうございます。

 日本には現在、千葉県白子に一つの共同体があるだけだが、この小さな田舎の町の小さな修道院に不思議なご縁で修道院付き司祭としての役目をいただき、日々のミサ聖祭を中心としてベネディクトの絆にある姉妹方と共に主への奉仕のわざを続けている。
 そして、この白子修道院の客舎続きに司祭室がある。客舎とは独立した玄関があり、客舎にどれだけ客人が宿泊されても1日を通して静寂の内に生活することができる。

 その玄関先にいつの頃か一匹の野良猫が顔を出すようになり、気が付いて見たら機嫌のいい時には猫なで声でニャーニャーと甘い声で囁きながら脚に体をすり寄せ、機嫌が悪いと悪魔のごとき形相で威嚇してくる。
 かなりの老猫らしくヨタヨタしているが、それは後ろ足を交通事故なのだろうか骨折したままになっているせいかも知れない。
 いつの間にか主人面をしている彼に「風太」(ふうた)と名付けた。風に乗ってふらりとやってきたからだ。
 天気が良ければ日中はどこに行っているのやら、でも一度雨や嵐になると玄関先に丸くなって風雨を避けている。
 寒い時には一番暖かな場所に陣取り、暑い時には舗装道に腹ばいになって体を冷やす。キジトラ柄の体は草と土の庭に保護色の役目を果たし、どこにいるのかわからない。
 それでも「風太」と呼べば、近くにいる限り、のっそりと足を引きずりながらも現れ可愛い声で「呼んだ?何か用か」と言っているかのようにニャーと鳴きながら尻尾をパタパタと私の足に打ちつける。

 そんな風太と毎日顔を合わすようになって、ペットではないけれど、飼い主と飼い猫の真似事をしながら、どちらがお世話になっているのかと時々思うようになった。
 確かに人間の世話を受けなければ生をつないでいけない小さな動物であるが、その見返り以上に人間の心を癒してくれる存在のように思えてならない。
 肉体的、精神的に疲れている時、どれほどストレスを和らげてくれていることか。なるほどペットの癒し効果とはこう言うことなのかと合点する。



 しかし、その風太、実はてんかん持ちで、1日に一度の割合で、腹を上に向けてひっくり返り、くるくると回転しながらスプリンクラー式に尿を振りまく。ものの1分くらいの間なのだが、これはたまったものではない。すぐに逃げださないとこちらまで尿まみれになってしまう。

 こんなに可愛いのにこれまで飼い猫になれなかったのはこの理由なのかも知れない。だが、当の本人は、この発作が収まると、ハッと我に帰るのか一瞬何があったのか自分の撒き散らした尿を見つめているが、すぐに知らぬ顔をしてそそくさと別の場所に移動してしまう。
 それを毎回離れて見ていると、こちらも要領がわかってきたので、危ない気配がするとすぐに家の中に退避することができる。
 驚いたことに風太は5分後にはもう何もなかったかのように、またすました顔で振り返りながら見返り美人よろしくニャーと甘い鳴き声をあげる。
 確かに人間とは違う。頭脳は人間の赤ん坊程度もないのかも知れない。しかし、何が起ころうともその後で「我、獅子の末裔なり」と堂々としているのには感服してしまう。
 人間だったら、周りを気にしたり、自分の過失を深く恥じ入ったり、怒りを心に溜め込んだり、明日はどんな顔をすればいいのかと独り悶々とする。だが、風太はいつも同じ顔で見上げる。
  .  インターネットの本屋さんのサイトに、一冊の本を見つけた。
 実際にはまだ手にとって見たことも読んではいないが、その書名が面白い。「猫は悩まない」と言うタイトルである。著者は石川県の猫寺と呼ばれる禅寺の僧侶で、曹洞宗の管長を務められた和尚さん。
 いくつかの著書があるようだ。書評を読んだだけだが、著者はこう言っているのだそうだ。「猫は,暑さ,寒さ,危機に,敏感に反応して行動する。しかし智恵は無い。論理的な思考もしないので,戦略的行動も,明日の心配もしない。そういう意味で,猫には悩みがない。

 しかし, 人は猫の様には行かない。考えても仕方ない事をグチグチ考えて,悩み,苦しみ, 不安になる。その様な人を安心の境涯に渡すのが,仏道である。」なるほど面白いではないか。

 猫は悩まない。それが猫の日常態なのだから。その極自然な生き方を忘れてしまったのが人間なのだろうか。雨であろうが晴れであろうが、意図せず、自然体で今日の一日を生きる、
 それは主イエスが語られた「空の鳥を見よ、野の花を見よ」とのみ言葉を私に思い起こさせる。福音が告げる単純で一筋の道、神への全託の生き方そのものではないか。心にまとわりつく苦しみは溜まりたまって、いつしか悩みと不安に私たちをどっぷりと浸してしまう。そういう私に、風太は起こってくる出来事をあるがままに生きる姿を目の前で見せつけ、私はまた福音に引き戻される。

 この世界を創造し支配しておられる神の御手の内に私たちの手を置こう、そう風太は今日も甘い声で鳴いているようだ。