St.Ignatia 塩澤 幸子さちこ 
 最初に、親類の T が私に分かち合ってくれたちょっ と嬉しい話をご紹介したいと思います。 数年前、T が仕事を終えて夜、家に帰ると玄関先で 迎えに出た 5 歳の娘の N ちゃんがカードを手渡してく れたそうです。そのカードには全文ひらがなの大きな 文字でメッセージが書かれていました。「ぱぱへ い つもありがとう もし、ぱぱがさめにたべられてしまったら わたしもたべられて もいいよ。どうしてそうおもうかとゆうと ぱぱがだいすきだから。」と。

 これを読んだ T の心は喜びに震え、涙で目をウルウルさせながら N ちゃんをギュ ウッと強く抱きしめてあげたそうです。幼い N ちゃんにとってサメに食べられてし まうことは、大好きなパパと離ればなれになってしまうこと、それは死を意味する ことなのでしょうか。パパが死んだ後、サメのお腹の中で再会できることを信じる N ちゃんのピュアな気持ちに私の心も揺さぶられました。

 さて、かつて、私は人生を共にした伴侶と死別し、悲嘆に暮れる時期を過ごしま した。この喪失体験から、死は決して遠くにあるものではなく、生きる上で避けて は通れない現実であり、とても身近なものとして受け止めるようになりました。昔 からずっと死=終わりというイメージを強く感じていた私に、終わりのない永遠の いのち、天国に対する憧れのようなものが強められていきました。


 聖書ではキリストを信じる者に対して「永遠のいのち」を明確に約束しています。 修道生活に入ってから、毎日、聖書を読んで黙想し、主との交わりを深めていく中 で、それまで何も見えていなかった死の彼方にあるものが薄っすらと見え始めてき たような気がします。日々の生活を通して、自分の弱さや至らなさ、人に対する期 待と失望、人間関係からくる苦しみと疲労…確かに目の前の苦しみから早く抜け出 たいと思うことがあります。でも、少し立ち止まると、心のただ中にいつもおられ 自分を愛し、慰め、支えていてくださる存在=主イエスに気づかされるのです。イ エス・キリストは私を死の彼方ある平和と幸福、癒し、喜びに満ちたとこまでエス コートしてくださる救い主です。この方のために自分の生涯をお捧げすることがで きたらどんなに幸せなことでしょう。

 先に行って死の彼方で待っている人々と、そして、その場所で手を広げて迎え入 れてくださる方に会える日まで、主イエスが喜ばれることを今あるこの場所で行っ ていきたいです。