今年2021年は昨年来の 新型コロナウィルス感染の猛威で年が 明け、収束中とは言えコロナで終わろうとしている。感染状況の ニュースで埋め尽くされた毎日の連続。修道院の中で生活してい ると、コロナ感染拡大以前とそれほど生活は変化していない印象 が強い。朝晩の散歩に出かける時、かなり歩き始めた後でマスク を持って来ていなかったことに気づき、あわてて家に戻ることも 多々ある。 以前はテニス選手たちの団体で賑わっているはずの通 りは静かな田舎道になってしまい、いくつかのホテルは廃業しているのか、ひっそ りとした埃だらけの玄関前は雑草が生い茂っている。やっと非常事態宣言は解除さ れたが、さて元の通りの生活に戻るのか、これから人の知恵と垣根を超えた互いの 協力が問われるのであろう。 新型コロナウィルス感染拡大は経済活動や社会生活に大きな影響を与えてきた が、自分にとってコロナによって強いられた最も大きな犠牲は、毎日の生きる「時間」 を十分に生かすことができなかったというもどかしい思いだ。 北海道のトラピスト 共同体への毎年の里帰り計画は何度か挫折した。典礼委員会の集まりも開かれなか った。社会で生活している方々はもっとこの痛みを身近に感じておられるはずだ。 ところで、この数年の間、高校時代の友人の訃報をいくつか受け取った。教会の 中で生きる聖職者と呼ばれるグループの中ではまだまだ自分たちは若い、と自負し ているつもりだが、世の中はそうではないようだ。 親の介護をし、親を看取りました、という季節の挨拶をいただいたと思っていたら、 その友自身の訃報が届き絶句する。確かに、そんんな歳になってしまったのだ。 所用で白子を出て都内に足を伸ばせば、 私はもう「おじさん」から「おじいさん」の部類なのだと、世間の目は容赦なく峻 別する。いやいや、私はまだ若いんだよ、と自分で言い聞かしてみても、頭の毛の 薄さや鏡に映る自分の顔は、残酷にも老化していく自分の姿を否応でも見せつける。 そんな一年一年と年を重ねて、コロナのニュースが頭の上を飛び交っている今日 も聖書を読みイエスの声に耳を傾ける。何度読み返したことか、同じ福音を今日も 読み込む。 若き日に語りかけてくださったイエスが、今日も私に語りかけてくださる。 同じイエス。でも今日、語りかけるイエスの声は若き日に気づかなかったイエ スの心の深い思いを、言葉を通してではなく、イエスご自身の姿を通して伝えてい るように思えてならない。 日曜日の御ミサの中での説教では、そのイエスの思いを 言葉で編み直して分かち合おうと努めているつもりだ。説教は聖書講解でも聖書研 究会でもない。神学辞典や聖書辞典からのコピーや引用を結論とすることでもない。 若き日に仰ぎ見たイエスが今日も人生の秋に差し掛かった私に明らかにしてくださ るご自身の思いを、自分の言葉で紡ぎ出すというとても個人的な領域から生まれる メッセージである。 もし、高齢の司祭が行う説教の優れた点があるとするなら、それは、自分の人生を 通して経験した様々な喜びや悲しみ、失敗や成功をイエスに見ていただきながら、 その中に隠れている知恵や神の教えを拾いあげてもう一度味わ い直すことでは ないだろうか。 主イエスは若き日にお会いした時と同じ姿で、私たちと福音の中で出会ってくだ さる。そのみ声を今日も、白子の静けさの中で聴きたいと思う。 世の中はどんどん 変化し、コロナの後は予想のできない次の世界に移り変わっていくのかも知れない。 時間は瞬く間に私たちを置き去りにしてしまう。有限の時間の中で生きる私たちに は計り知れない神の |