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召命の神秘

Sr.雅枝(関雅枝)在フランス


 平和の元后修道院も創立50周年を迎えるとのこと、文字通り光陰矢の如しの感を覚えます。 私の平和の元后修道院在住期間の合計が24年半ですから、毎年の修道院便りに割り込ませていただいているものの、フランスでの生活の方が永くなりました。今回も記念文集投稿に誘われて、諸々の思い出が甦り、こもごもの想いを抱くなか、私の隠世修道生活の召命観を綴ってみようかと思い立ちました。

 宝塚の日本家屋をお借りして出発した小さな共同体、翌1969年多治見の修道院に移転し入会者を受け入れる態勢が整った11月、私は最初のグループのひとりとして入会しました。
 随分大勢の入会者退会者の入れ替わりを通過し、最初のグループから最終的に終世誓願宣立に至ったのは、スールヴェロニカ(高橋和子)とスール雅枝(私、関雅枝)の二人だけ。模範的な修道の歩みをしているスールヴェロニカに比して、世間で思いっきり奔放な生活をして来た私にとって、否、長上たちにとっても、果たして私に召命があるのかは大きな疑問だったと振り返ります。もっとも本人の私は迷ったことも疑ったこともなく、神様が呼んだんだから何とかしてくださるだろうとたかをくくっていましたが……
 召命の神秘の一面です。

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 私が若かった頃、日本でカルメル会やクララ会は既に観想修道会として有名でした。厳律シトー会もトラピスト会として知られていました。

 しかし同じ聖ベネディクトの精神を生きるベネディクト会が存在していたにもかかわらず、小教区を持っていたためか観想修道会と云う印象は少なかったように思います。ましてや本会に至っては創立の若さもありましたし、最初の紹介が病者や障害者の会と言う、ある意味で事実でありながら誤解を呼ばずにはいられないものでしたから、大部分の方が可哀想な他に行く場所の無い人の修道会くらいに思っておられたのではないでしょうか?
 確かに日本の修道院でも欧米の修道院でも健康上他に受け入れてくれるところが無かったから本会に来た姉妹はかなりいます。他に行くところが無かった……本会隠世修道院の形態を何も知らなかった……更には使徒活動に携わりたかったのに健康が許さなかった……など、個人の意向、意志がどうであれ紆余曲折の後本会にたどり着いたとします。



 ところがそれにもかかわらず何年かの時を経て会の精神をすっかり身につけて生きている姉妹が結構いるのです。そして彼女たちは言うのです、「よかった!ここでよかった」と。私は自分の身分からこのように表現するのですが、同じことを他の召命を生きておられる方もそれぞれの立場から同じように言われるのではないでしょうか。
神の呼んでくださった召命を生きることはさいわい。神が呼んでくださった…ですって?でも神がどのような方法で一人一人を呼んでくださるかは別としても、呼ばれている人自身が門を叩くのです。
 召命の神秘です。

 キリスト教のかなり初期、迫害の時代を終え人々の生活が落ち着いて来ると、世を離れてキリストのみに生きる修道生活が砂漠で見られるようになり、特別なカリスマを受け人並み超える修業を成し遂げた少数の聖者だけでなく、平凡なキリストの弟子たちが師父の周りに集まって祈り、寝起きを共にして隠世共修生活をしていました。
 この隠世共修修道生活様式がヨーロッパにも及び聖ベネディクトとその戒律のもと1500年以上にわたって営まれて来ました。
 永い歴史の中でそれぞれのカリスマや改革を通って幾多の会が生まれて今日に至っていますが、本会もその末裔のひとつです。私からすると、本会の従順(み旨への全き委託、それを長上への従順で表現する生活)、貧しさ
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(資産だけでなく人材も健康も貧しい会…)、単純(神の子の、そして貧しい者の単純さ)、姉妹愛(何しろ助け合わなければ生きていかれない状態なのですから)のあり方はエジプトで営まれていた初期の生活にそっくりです。
 ヨーロッパの歴史の中でベネディクト会は他の大きな会と同様に随分格式高いものになっていますが、そんな中でとてもシンプルなのです。学歴も健康も資産あって何でもできる人が、私たちの貧しさを良しとするか、あるいは躓きこんな会と見るかは本会に呼ばれているか否かのひとつの識別基準にもなります。
 召命の神秘です。

 本会の創立者はベネディクト的生活を望む人に、召命があるならば虚弱や身体障害があっても受け入れると云う、元来の修道生活で閉ざされた扉を開きました。指南書の始めに会の目的を「十字架の秘義を世に輝かせる」と表現しています。「キリストは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従われた。それ故に神はイエスを高く挙げ…」。彼の苦しみと死がそこで止まるのではなく復活に、全人類の救いに至る、その方の後に従う。でも、これは全キリスト者に求められていることではないでしょうか。教皇ベネディクトのメッセージに必ず見つけられるテーマです。



 つまり会の目的は本会独特のものではなく全キリスト者に共通する課題です。この平凡さをどれ程非凡に生きるかが、私たち一人ひとりに求められていることです。与えられたすべてを使って…苦しみと死を過ぎ越し救いの喜びに与る。ですから私たちは「アーメン・アレルヤ」と歌うのです。
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