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神の招きの神秘

Sr. Maria 光恵  佐久間 光恵 


 今、私はどうして、ここ修道院にいるのだろう。

 目をつむりひと呼吸して、記憶の糸を手繰り寄せていくと、田舎の故郷に行き着く。神と私の出会いの原点は、ここにあった。
 澄みきった空、澄んだ空気、遠く近く連なる山並み、深い静けさをたたえた湖、さまざまな生物を抱いている大森林、命を生み出し育む大地、無数の星、嵐や雷鳴の中に、私は幼少の頃から大いなる存在の在ることを肌で感じていた。それは、備えられている本能なのかもしれない。

“神の招き”これは説明がつかない神秘としか言いようがない。
 私は、大自然の中に、そして両親の内に、表現できない偉大な力が宿っているのを直感していた。
言葉を越えた何か! しかし、確かに在る何か!あの田舎に、キリスト者は1人もいなかった。語って聞かせてくれる人もいなかった。

 ところが神は、時間をかけて私を少しずつご自分の元に引き寄せておられた。老父母が土と向きあい、無心に働く姿の内に、神にむかう祈りを観た。謙虚で、畏敬に満ちた美しい姿が、深く心に残っている。

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 紆余曲折の長い道のり、出会いと別れ、苦しみと挫折、困難に阻まれ、呻き這い上がり、そのひとつひとつが、神の招きのプロセスでした。

 私にとってはこの時の "否" の体験が、今では輝いて見える。  大聖年の時、ある黙想の家で祈っている時に「主よ!私に何をお望みですか。」と問いつつ福音書を三度開いてみると、マルコ、6〜杖一本のほかはいっさい、パンも袋も、お金も持たないように! 次にルカ、1章37〜神には、何一つおできにならないことはない。

マタイ、19章21〜 持ち物を売り、貧しい人に施し、わたしについて来なさい。という場面に出会った。何度も聞いていたみ言葉であったのにこの時は、頭を殴られたような衝撃を受け消えない。
 それから葛藤の日々、駄々をこねたが、主イエスに負けた。私をこの道に呼んだのは、感情でも憧れでもない。主イエスの言葉でした。