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光であるイエスに感謝をこめて……

Sr. Maria Clara 原 理香


 「わたしは、標もなく光ももたなかった。
 けれどもこの光(イエス)は、真昼の光よりも確かにわたしを導いていった。
 わたしを知りぬくあの方が、待っておいでになるところへ」(十字架の聖ヨハネ)
   2008年5月、私は初めて、この白子修道院を黙想の為に訪れました。
 私はその時、「神様が存在されているのかどうかも解らない」暗闇の中にいました。
 数年の間に自分の病気の悪化と父の病気、そして受洗してからの最大の危機な状況が重なって続き、人生の暗夜の中をさまよっていました。

 黙想の二日目、宿泊していたベネディクト館の二階で一冊の本を見つけた私は、手に取って読んでみました。
そこには、本会の創立者の一人であるモーリス・ゴーシュロン神父の書いた、このような文章が載っていたのです。「明らかに神が招いておられる人を、単に健康上(身体)の理由のために修道生活から除外してもよいのだろうか」と。
 このことばは、私の内奥に、神からの呼びかけとして、光のように一瞬にして染み通りました。
私は心の内で、こんな惨めな私に?という驚きと、嬉しさを抱いだきながら「この私にも、召命がある」と呟き、涙を流しました。
(けれども、世間に戻るとまた闇に覆われてしまったのです。)
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 東日本大震災の直後、真正会館の森一弘司教様の講義の中で「今、日本のジャーナリストが『神はいない。神は死んだ。』と報道している。」と話されました。
 その少し前に、私は森司教様に助けて頂き、司教様を通して「神は在り、いつくしみそのもの」だと確信したばかりだったので、私は自分の全存在を懸けて神を証ししたいと望み、奉献生活を生きる事へと歩みはじめたのです。

 それから、様々な事柄を経て、2013年6月、私は家族と友人と住み慣れた湘南を離れ、キリストのみ跡に従って生きる事を切望しながら本会に入会しました。

 入会したその夜、荷物の入った段ボールの幾つか置かれた小さな修室で一人きりになった時、私はベッドに腰かけて、神様のみ旨を識別する為に、恐る恐る目を閉じ、自分の心を見ました。そこには、深い深い平和があり、私は感謝と喜びに満たされました。
そして、安堵しつつ、心に浮かんできた小さいテレーズの自叙伝の言葉、「いつまでも、いつまでも私はここに居る」を繰り返えしながら、喜びを噛み締めたのでした。