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09 宝  物

Sr. Maria 洋子 (穂積洋子)


 私は家からあまり遠くない、プロテスタント教会付属の幼稚園に通っていました。

 当時の私にとっては、幼稚園の敷地は広大で大きな樹木が何本もあり、すばらしい遊び場でした。初日こそ大泣きしたそうですが、慣れてくると友達もでき、楽しく通園していました。
 いつ頃からか、子供たちのための日曜学校にも通い出しました。牧師先生(園長先生)の、子供のための聖書物語は大好きでしたし、先生の奥様が弾いてくださるオルガンに合わせて歌う「こども賛美歌」も大好きでした。今でもこれらの歌を空(そら)で歌うことができます。


 しかし何と言っても楽しみだったのは、「出席ノート」です。
これは小さなノートで、日付とカードを貼る欄があって、毎週日曜学校でもらうカードを糊付けしてゆくようになっていました。カードはごく小さなものでしたが、必ず短い聖句(聖書のことば)が書いてあり、その句にふさわしい絵が描いてありました。芸術的なものではありませんでしたが、いい加減なものでもなく、子供の心を養うものでした。
 でもこのカードをもらうには、ただ出席するだけでは不十分で、テストに合格しなければならなかったのです。次の週のカードに書いてある聖句を暗記していって、一人ずつ皆の前で暗誦するというものでした。

 聖句自体はごく短いものでしたから暗記するのは幼稚園児でも簡単にできるものでしたが、小心者の私にとっては大変な試練でした。皆の前に一人で立って、先生に「さあ、言ってごらん」と言われると、一瞬頭の中が真っ白!
 同じ句を皆が繰り返しているのだから、ただそれをオウム返しに言えばよいだけなのですが、胸はドキドキし、まるで世界中の人の目が自分に集中しているようで、全然声が出ません。
 すると先生が、そっと耳元ではじめの言葉をささやいてくださり、そうするとやっと、ほとんど誰にも聞こえないようなか細い声で暗誦することができました。情けないことに毎回この繰り返し。
 それでも先生は、「ああ、よくできたね」と言って、カードを手渡してくださいました。

 このような具合でしたから、私にとっては一枚一枚の小さなカードがほとんど無限の価値を持ったものとなり、それだけにノートに貼り付ける時の喜びは大きかったのです。
 そしてまた次の日曜日のために一生懸命聖句を暗記し、毎回冷や汗をかきながらも、戦利品のカードを持ち帰りました。そして毎日、それを眺め、幼いながらも味わっていました。

 カードの絵はたいていイエスさまで、その中の一枚が特別に私のお気に入りのものでした。
それはイエスさまが一人の子供の頭に手を置いておられるもので、今でもはっきり覚えています。それからいろいろなイエスさまの絵を見ましたし、名画と呼ばれるものにも触れましたが、幼い日の心をときめかせてくれたあの絵には再び出会うことがありませんでした。
「出席ノート」も何回か引越しをしているうちに手元から消えてしまいました。
けれどもそれを残念に思ったことはありません。
 幼稚園から学校へ、そしてカトリックになって修道院に入りましたが、イエスさまはずっと私と共にいてくださっているからです。
祈りはイエスさまとの親しい語らいのとき。部屋で長い間カードのイエスさまと過ごした時と変わりません。

 何よりもイエスさまは、心の深い平和を通して存在してくださっています。何ものにも替え難いこの心の平和・・・私にとってこれ以上の宝物はありません。

 どうかすべての人がこの貴重な宝を見出し、平和と喜びのうちに生きられますように、祈っています。

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