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12 イエス・キリストとの出会い

Sr.Francisca 岡島 静代


 私は子供の頃、悪がきでした。

 勉強大嫌い、学校では、先生の教えていることが、さっぱり分からないので、ひたすら黙って下校を待ちわび、家に帰れば妹と取っ組み合いのけんか、近所の同じ悪がきたちとチャンバラごっこや柿どろぼう。

 そんな私でしたが、意外に!! 哲学的(?)な女・・の・・子・・でもありました。田んぼの中に一人座って、「あたいは何のために生まれて来たんだんべ」とか「生きる意味って何だんべ?」とか「死んだらどうなるんだんべ」とか空を見上げながら考えていました。(だんべは昔の群馬弁)
 この問いが宗教に関心を持つきっかけになったかも知れません。



 私が初めてイエスの名を知ったのは、子供のころ、日曜日になると母がラジオの「ルーテル・アワー」をかけていたからです。朝ごはんを食べながら、自然に耳に入ってきました。イエスさまという人に興味を持ち始めました。

 高校生の時私は仏教にも関心があったのですが、図書館で見た本はむずかしくてあきらめました。でも、修学旅行で行った京都の小さいお寺の庭に若い尼僧の姿を見た時、「私も尼さんになりたい」と思ったものです。

 それに、外国文学を図書館で読むと、聖書の引用が沢山出てきたり、アメリカの女子高校生と文通を始めたら、熱心なキリスト者で宣教に日本に行きたいとか書いてくるので、益々キリスト教を知りたいと思い、友人を誘って、教会に行ってみました。

「愛の教え」というテキストを用いてキリスト教の勉強を神父さまから毎週教えて頂きました。その教えは私の心に砂が水を吸い込むように入ってきました。これこそ、私が田んぼの中で考えていたことの答えでした。

 神父さまから福音書をいただき、ヨハネ福音書を読んだ時の感動は今でも忘れられません。思わず「この人(イエス)は本当の人間だ、真の人間だ」と叫んでいました。真の人間の姿がそこにありました。既成概念や道徳にとらわれない、自由な人の姿がそこにありました。心の自由な人、というのは私が最も憧れる人です。福音書の中のイエスは私の心をとらえてしまいました。この人について行けば間違いない、人間の生き方を知っている、と確信しました。神の御子であるということも。

 その年に洗礼を受けたかったのですが、高校生は両親の承諾が必要でした。両親は反対。
 そのころ聖ヨハネ23世教皇が逝去したというニュースがテレビで報道されました。
 そうだ、天国に着く前にこの教皇にお願いしようと、すぐに
「神様に会ったら、私が洗礼を受けられるようにお願いしてください」
と熱心に頼みました。
そしてしばらくすると、両親は渋々ながら許可してくれました。当時名前しか知らなかったのですが、今でも聖ヨハネ23世は私の信仰の恩人として心に刻まれています。

 そして16歳の時、洗礼を受けることができました。洗礼式には、子供の頃ケンカした妹が立ち会ってくれました。
 洗礼を受けた時から、信仰がいつぐらつくかも知れません。それが心配でしたので、それ以来私はずっと「信仰を強めて下さい」と願い続けています。

 私の一生の宝、私の生涯で最も幸せなこと、それはイエスと出会ったことです。信仰をいただいたことです。どんな辛いことがあっても、イエスは必ずその意味を教えてくれます。私のこれまでの生涯を深いところで支え、指針を与え続けているのはイエスです。
 出来るだけ多くの人がイエスさまに出会えたらどんなに人生が変わるでしょう。

 私はいつも、そのために心から祈っています。




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