「キリストは神の身でありながら・・・。人間の姿で現れ、
へりくだって死に至るまで従順でした。
それゆえ・・・」(フィリピ2・6〜9)

 このイエスにならって生きたいと強く望んだ。
その時にはイエスのこの道がどれほど苦しいか何も分かっていなかった。
神は信仰の無いわたしになんと大変な望みを抱かせて下さったのだろうか。
その後、70歳を前にして苦しみに襲われはじめた。もうじき6年になる。
 ある方は「その苦しみは Sr.由美の魂の成長の為だよ」と言って下さった。
でもその時のわたしには、その言葉を受け入れる勇気は無かった。

 一昨年の黙想で御父は言って下さった。「あなたの嘆きは私の前に 何一つ隠されていない」と。
そして昨年の黙想で M師(サレジオ会)に、ひとことふたこと話しただけなのにM師は 「シスターこの5年間苦しかったね。辛かったね」
と言って下さった。
わたしは驚いた。御父がM師を通して慰めて下さったのだと信じた。

 イエスは言われた。「わたしは全てを知っている」と。
 わたしは
「イエス、あなたが知っていることを全て明るみに出して下さい」
と祈り続けた。でも聞き入れて下さらなかった。
わたしは苦しんだ。苦しんで苦しんでやっと気づかせてくださった。 この祈りは聞き入れられなくて当然。なぜならイエスに従いたいと願いながら 彼の望みは何だろうと一度も考えたことは無かったし、 いつも自分中心の祈りだったから・・・。
自分の思いに死ぬことなど忘れていた。

苦しみの始まっていた2018年の内観でイエスは既に御自分の望みである 祈りをされていた。しかし、わたしは気づかなかった。

 そして今年の9月に光を頂いた。
「あなたがたにはキリストを信じることだけでなく、キリストの為に苦しむ ことも恵みとして与えられているのです」(フィリピ1・29)
パウロのこの言葉はわたしの心にストンと落ちた。

 わたしは信じた。過ぎ去った日々に復活の光を当てるとそこには 頂いた恵みが一杯。こんなにたくさんの恵みを下さっていたのだ、と。
苦しみの中にいる時には「どうして私にこんな苦しみが?」と思い辛かった。
でも、苦しみながらでもこの道を歩き続けよう、と思う。
自分を偽って生きることは出来ない。
修院付司祭のエマヌエル師がいて下さるので毎日のミサに与り、 月に一度告解を聴いていただく。
これ以上の恵みがあるだろうか。

 わたしは命をいただいた。
主は「許すことの出来ない」深い苦しみを 背負うわたしをしっかり立たせ手を引いてこの過越の道のりを 共に歩んで下さった。

 今年の10/3真夜中、わたしはトイレに行きドアを開けようとした。
その時誰かが祈っている小さな声を聞いた。わたしは耳を澄ました。
「父よ、彼等をお赦し下さい。彼等は自分が何をしているのか知らないのです。」 (ルカ23・34)わたしはそれがイエスだとわかった。
復活されたイエスが、 うずくまって小さくなって御父に祈りを捧げて下さっている。
苦しい6年の日々も絶え間なく祈って下さっていたのだ。

父と子と聖霊、ありがとう ありがとう ありがとうございます。


 ちょこっと天国
・天国の門で、父ちゃんは、誰かを待っています。
あ 見つけました。おむつをした大きなおしりの小さな女の子が
一生懸命歩いて来ます。トコトコトコトコ・・・門に着くと
父ちゃんはその子を抱き上げ、ほおずりしながら
「よう帰ってきた、よう帰ってきた・・・」と幸せいっぱいです。
女の子も幸せでいっぱいです。
その子の手には小さな小さな十字架が光り輝いていました。
(2021.9,14)

・ペチャクチャ、ペチャクチャ、可愛い天使達のおしゃべり。
「これこれ、昼寝の邪魔をしてはいかん」
「ねえねえ、父ちゃん今度来る人どんな人?」
「それは内緒じゃ。お前達の大好きな人じゃ。」
「うん、うれしいね、待ってるよ」
ペチャクチャ、ペチャクチャ、天国の昼下がり」
(2022・10.2)